「JIN-仁-」に登場する濱口梧陵、ヤマサ醤油七代目当主と近代医学・津波~防災~稲むらの火 | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

「JIN-仁-」に登場する濱口梧陵、ヤマサ醤油七代目当主と近代医学・津波~防災~稲むらの火

原作とドラマともにヤマサ醤油の七代目濱口儀兵衛(梧陵)が登場します。
ペニシリンの製造を可能にしたのがヤマサということになっており、
なぜ現存する私企業がこのような扱われ方なのかについて、
一昨年のドラマ放映時に少しお書きしたんですけれど、
あらためてお書きしてみたいと思います。

ドラマ JIN-仁-


加えて、22日の産経新聞夕刊1面に濱口梧陵の事が載っていました。
そこには医術関係の話は出てこないんですが、
そちらのお話もお書きしたいと思います。

まずはなぜ「JIN-仁-」で醤油蔵と多数の職人を貸し、
ペニシリン製造を可能するという役回りが
ヤマサの当主に与えられたかについて。

以下、想像ですが…。

19世紀半ばに関寛斎という人がいました。
元々彼は農家の生まれでしたが、儒学者の家に養子に行き、
ここで勧められて蘭医学の塾である佐倉順天堂に入ります。
そして長崎留学。その資金を用立てたのが濱口梧陵でした。
長崎ではオランダ人医師ポンペに学び、
当時、コレラの防疫に力を注いでいた梧陵から
西洋種痘所(種痘所、後の西洋医学所、現在の東京大学医学部)へ
行くことを勧められ、
伊東玄朴らからコレラの防疫について学んでいます。
そして、それが銚子でのコレラ防疫に効果を発揮しました。


濱口梧陵



濱口梧陵は当時の多数の社会事業を手がけた豪商で、
特に医学については理解があり、
多くの蘭方医の研究を助けたパトロンであったようです。
そして、種痘所が火災で焼けると再建のための300両を寄付しています。

一昨年のドラマでもペニシリン製造所が火災に遭いましたけれど、
これはこの事件を元にしているのかもしれません。
そして、歴史上の人物が多数登場する本作で、
ペニシリン製造再開の手助けをするのは、
この濱口梧陵が最も適任だと村上もとか先生、
ドラマスタッフが判断したのではないでしょうか?



そもそも、濱口儀兵衛という名前は
濱口儀兵衛家当主が代々名乗る名前で、梧陵は雅号。
そして、濱口儀兵衛家というのが、
現在のヤマサ醤油だという訳です。

後の梧陵は、この濱口家の分家に生まれ、紀州の人。
12歳の時に本家へ養子となり、銚子へと移ります。
この銚子と紀州を往復していたそうなんですが、
江戸にも住んでいたとかで、そこでは当時の日本の情況、
世界情勢などを知るに及び、開国論者となっていきます。
しかし、歴史的には幕府がそのような考えに至るにはまだ時間が必要で、
西洋文明の優れた点を広めるべく青少年の人材育成を目的に、故郷に学校
「耐久社(現在の和歌山県立耐久高等学校)」を建てていたりします。

この学校が出来たのが1852年(嘉永5年)、
その2年後に天災に見舞われます。

その時に濱口梧陵が英雄的活躍をすることとなります。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)曰く生き神であると。
その出来事を物語として、短編「A Living God」を書きます。

その主人公濱口五兵衛のモデルとされるのが濱口梧陵でした。

これを地元出身の小学校教員・中井常蔵が翻訳、再編し
物語「燃ゆる稲むら」が出来上がり、
これが「稲むらの火」と改題され小学国語読本に採用されたことで、
日本中に知れ渡ることとなりました。

村の高台に住む庄屋の濱口五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られたのだ。


元は八雲の書いたお話で、教育的意味合いを強めるためか、
事実と異なる点が多数あるそうですが、
事実には事実のさらなる彼の偉人ぶりを伺うことが出来ます。

多くの人命が失われることは防いだものの、
村は壊滅的なダメージを受けました。
彼は村人たちの生活のための建物(仮設住宅のようなものか?)を建て、
そして、糧を得るための農具や漁具を調達しています。
さらに彼は私財を投じて全長600mもの大防潮堤を築きます。
その作業には被災民を充て、
これにより、村人たちはこの村に留まることが出来ました。

この大事業により、津波の後の村が救われた訳ですが、
濱口家の財政は厳しくなり、
銚子のみを残して他は手放してしまうことに。

将来の津波に備えたこの堤が完成してから88年後、
1946年(昭和21年)に和歌山沖で昭和南海地震が発生、
大津波が村を襲いますが、
大部分がその堤防のおかげで無事だったんだそうです。


彼のような偉人に倣うべき事がたくさんあるように思います。


新聞記事のほうはこちら。

教科書「稲むらの火」復活1年早ければ…主人公の玄孫、灘高理事長の思い
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110422/edc11042213130000-n1.htm


灘高の嘉納毅人理事長は、濱口梧陵の玄孫なんだそうです。
この稲むらの火は、
今年度から64年ぶりに教科書に復活したんですけれど、
「もう1年早ければ」と仰っています。

稲むらは年貢米。火をつけることは重大な犯罪行為で打ち首ものだった。でも梧陵は村を守るためにやった。東日本大震災は未曾有の非常時。こういうときこそ政治のトップは自分の首をかけて非常時の政策に臨むべきだ

とも。

稲むらの火については、

稲むらの火 webサイト
http://www.inamuranohi.jp/


こちらの嘉納理事長のサイトでご覧になれます。




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