龍馬伝 第25回「寺田屋の母」 その背景 蛤御門の変 その1 | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

龍馬伝 第25回「寺田屋の母」 その背景 蛤御門の変 その1

「寺田屋の母」というサブタイトルですが、
サブタイトルまでにしなくてもなあ、
なんて思います。
草刈民代さんの再登板には異論を持ちませんが、
そのための時間がもったいなかったなあと…


土佐では引き続き、

NHK大河ドラマ 龍馬伝

後藤象二郎は、吉田東洋殺害についての証言を得るべく、
岡田以蔵を責め立てています。

絶え間なく続く以蔵の悲鳴と呻き声に、

NHK大河ドラマ 龍馬伝


武市半平太は彼を死なせてやろうと考えるのでした。






NHK大河ドラマ 龍馬伝

1864(元治元)年7月19日、
蛤御門の変。

禁門の変などとも呼ばれ、
町の3分の2、約2万7000世帯が家を失う大火に至ります。

原因は「八月十八日の政変」で立場を失った攘夷派、
特に長州は京を追われる形で、
国に戻ることになります。
そして、攘夷が取りやめになり、
一部の長州藩士を含む攘夷派が京に結集し、
その現場を新撰組に襲われることに。

この池田屋事件は6月5日。
この報に激怒した長州藩内の攘夷派、
16日に京へ向けて軍を進発します。

この頃の一橋慶喜は禁裏御守衛総督なる役職で、
藩兵を挙げて軍を動かす事は、家康の代からの禁忌。
慶喜は自らを総大将として、迎撃の構えを見せます。
この時、出兵要請に応じた彦根、会津、桑名、薩摩各藩兵を加えると、
その数は8万ともいわれています。
対する長州勢は数千程度。

しかし、慶喜もこの劇中のように、
これ幸いと長州を討とうとした訳ではないようです。
6月28日の段階で、孝明天皇が長州藩士の入京不可の勅を下した後、
それでも、引き下がらない彼らに対し、
翌29日から翌月16日までの計5回、退京勧告を行っています。
そして、17日に撤兵なくば追討やむなしの最後通告を。

慶喜は自軍の数から、
長州は引き下がるしかないと考えていたのでしょうか。
しかし、長州軍は軍を進め、
その士気の高さからか、覚悟の強さからか、
圧倒的数的不利の中、
御所を目前に捉えるまで快進撃を続けました。

玉体まであとわずか。

しかし、ここで立ちはだかるのが、
会津と薩摩の兵。
薩摩の兵を率いていたのが西郷隆盛です。


大願成らず、自刃する久坂玄瑞ら。

NHK大河ドラマ 龍馬伝

長州藩は、蛤御門に砲撃したことで、
孝明天皇の怒りを買い、
この変の5日後、
孝明天皇は長州征伐の勅を下す事になります。

(蛤御門の変については、こちらの記事へと続きます)


池田屋事件~蛤御門の変で、

NHK大河ドラマ 龍馬伝

神戸海軍操練所はあおりを食らいます。

その心の内を胸に秘めつつ、

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お龍に接する龍馬。


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