龍馬伝 第25回「寺田屋の母」 その背景 蛤御門の変 その1
「寺田屋の母」というサブタイトルですが、
サブタイトルまでにしなくてもなあ、
なんて思います。
草刈民代さんの再登板には異論を持ちませんが、
そのための時間がもったいなかったなあと…
土佐では引き続き、
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/49/68/j/o0416022710601445906.jpg?caw=800)
後藤象二郎は、吉田東洋殺害についての証言を得るべく、
岡田以蔵を責め立てています。
絶え間なく続く以蔵の悲鳴と呻き声に、
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/f2/46/j/o0416028110601445905.jpg?caw=800)
武市半平太は彼を死なせてやろうと考えるのでした。
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/68/63/j/o0416025010601450171.jpg?caw=800)
1864(元治元)年7月19日、
蛤御門の変。
禁門の変などとも呼ばれ、
町の3分の2、約2万7000世帯が家を失う大火に至ります。
原因は「八月十八日の政変」で立場を失った攘夷派、
特に長州は京を追われる形で、
国に戻ることになります。
そして、攘夷が取りやめになり、
一部の長州藩士を含む攘夷派が京に結集し、
その現場を新撰組に襲われることに。
この池田屋事件は6月5日。
この報に激怒した長州藩内の攘夷派、
16日に京へ向けて軍を進発します。
この頃の一橋慶喜は禁裏御守衛総督なる役職で、
藩兵を挙げて軍を動かす事は、家康の代からの禁忌。
慶喜は自らを総大将として、迎撃の構えを見せます。
この時、出兵要請に応じた彦根、会津、桑名、薩摩各藩兵を加えると、
その数は8万ともいわれています。
対する長州勢は数千程度。
しかし、慶喜もこの劇中のように、
これ幸いと長州を討とうとした訳ではないようです。
6月28日の段階で、孝明天皇が長州藩士の入京不可の勅を下した後、
それでも、引き下がらない彼らに対し、
翌29日から翌月16日までの計5回、退京勧告を行っています。
そして、17日に撤兵なくば追討やむなしの最後通告を。
慶喜は自軍の数から、
長州は引き下がるしかないと考えていたのでしょうか。
しかし、長州軍は軍を進め、
その士気の高さからか、覚悟の強さからか、
圧倒的数的不利の中、
御所を目前に捉えるまで快進撃を続けました。
玉体まであとわずか。
しかし、ここで立ちはだかるのが、
会津と薩摩の兵。
薩摩の兵を率いていたのが西郷隆盛です。
大願成らず、自刃する久坂玄瑞ら。
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/ee/54/j/o0416023310601450172.jpg?caw=800)
長州藩は、蛤御門に砲撃したことで、
孝明天皇の怒りを買い、
この変の5日後、
孝明天皇は長州征伐の勅を下す事になります。
(蛤御門の変については、こちらの記事へと続きます)
池田屋事件~蛤御門の変で、
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/c6/da/j/o0416022810601450174.jpg?caw=800)
神戸海軍操練所はあおりを食らいます。
その心の内を胸に秘めつつ、
お龍に接する龍馬。
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/9f/e5/j/o0416025210601450649.jpg?caw=800)
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/03/f2/j/o0416022810601450650.jpg?caw=800)
![ねてしてタペ](https://stat.ameba.jp/user_images/20100124/19/thinkmacgyver/ba/0e/j/o0380014710387375617.jpg?caw=800)
サブタイトルまでにしなくてもなあ、
なんて思います。
草刈民代さんの再登板には異論を持ちませんが、
そのための時間がもったいなかったなあと…
土佐では引き続き、
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/49/68/j/o0416022710601445906.jpg?caw=800)
後藤象二郎は、吉田東洋殺害についての証言を得るべく、
岡田以蔵を責め立てています。
絶え間なく続く以蔵の悲鳴と呻き声に、
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/f2/46/j/o0416028110601445905.jpg?caw=800)
武市半平太は彼を死なせてやろうと考えるのでした。
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/68/63/j/o0416025010601450171.jpg?caw=800)
1864(元治元)年7月19日、
蛤御門の変。
禁門の変などとも呼ばれ、
町の3分の2、約2万7000世帯が家を失う大火に至ります。
原因は「八月十八日の政変」で立場を失った攘夷派、
特に長州は京を追われる形で、
国に戻ることになります。
そして、攘夷が取りやめになり、
一部の長州藩士を含む攘夷派が京に結集し、
その現場を新撰組に襲われることに。
この池田屋事件は6月5日。
この報に激怒した長州藩内の攘夷派、
16日に京へ向けて軍を進発します。
この頃の一橋慶喜は禁裏御守衛総督なる役職で、
藩兵を挙げて軍を動かす事は、家康の代からの禁忌。
慶喜は自らを総大将として、迎撃の構えを見せます。
この時、出兵要請に応じた彦根、会津、桑名、薩摩各藩兵を加えると、
その数は8万ともいわれています。
対する長州勢は数千程度。
しかし、慶喜もこの劇中のように、
これ幸いと長州を討とうとした訳ではないようです。
6月28日の段階で、孝明天皇が長州藩士の入京不可の勅を下した後、
それでも、引き下がらない彼らに対し、
翌29日から翌月16日までの計5回、退京勧告を行っています。
そして、17日に撤兵なくば追討やむなしの最後通告を。
慶喜は自軍の数から、
長州は引き下がるしかないと考えていたのでしょうか。
しかし、長州軍は軍を進め、
その士気の高さからか、覚悟の強さからか、
圧倒的数的不利の中、
御所を目前に捉えるまで快進撃を続けました。
玉体まであとわずか。
しかし、ここで立ちはだかるのが、
会津と薩摩の兵。
薩摩の兵を率いていたのが西郷隆盛です。
大願成らず、自刃する久坂玄瑞ら。
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/ee/54/j/o0416023310601450172.jpg?caw=800)
長州藩は、蛤御門に砲撃したことで、
孝明天皇の怒りを買い、
この変の5日後、
孝明天皇は長州征伐の勅を下す事になります。
(蛤御門の変については、こちらの記事へと続きます)
池田屋事件~蛤御門の変で、
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/c6/da/j/o0416022810601450174.jpg?caw=800)
神戸海軍操練所はあおりを食らいます。
その心の内を胸に秘めつつ、
お龍に接する龍馬。
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/9f/e5/j/o0416025210601450649.jpg?caw=800)
![NHK大河ドラマ 龍馬伝](https://stat.ameba.jp/user_images/20100621/00/thinkmacgyver/03/f2/j/o0416022810601450650.jpg?caw=800)
![ねてしてタペ](https://stat.ameba.jp/user_images/20100124/19/thinkmacgyver/ba/0e/j/o0380014710387375617.jpg?caw=800)