龍馬伝 第9回 「命の値段」 その背景 土佐 - 薩摩・長州との違い | テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。

龍馬伝 第9回 「命の値段」 その背景 土佐 - 薩摩・長州との違い

話が逆行します。


知らない事は限りなくあるもので、
そして、知らないということは、
これから知る事が出来るという事で、
実に楽しみな状態なんですよね。

理解しているつもり、
知っているつもりの事がたくさんありますよね。
これが一番まずい状態です。

私もある程度、幕末について
理解しているつもりだったんですけど、
よくわかっていなかったんですねえ。

大河ドラマ 龍馬伝

さて、話を1話ぶん遡りまして、
武市半平太と坂本龍馬は、
水戸、長州、薩摩の攘夷を目指す者たちと会合を持ちました。

大河ドラマ 龍馬伝

この席で、土佐の二人は水戸はもちろん、
長州や薩摩でも、藩を動かし、
攘夷への機運は高まるばかりだと知らされます。

そして、問われます。

土佐はどうかと。

答えに詰まる半平太ではありましたが、
慌てて、「土佐でも~」と答えてしまいます。

この会合の帰り道で龍馬は、

いやあ、立派な事を考えちゅうのぉ。
幕府を動かそうらぁ、わしには到底考えつかん。
けんど、あの人らぁと、互角に話をする事が出来るとは。
やっぱり、大したもんじゃ、武市さんは!


と半平太を讃えます。
しかし、彼は、

やめてくれ! あんな恥ずかしい思いをしたがは初めてじゃ!
土佐に戻んたち、わしは、お城にも入れてもらえんがやき! 
お殿様に攘夷を説くら、夢のまた夢じゃ! 


あの席にいた他藩の者が、
藩を動かして攘夷への道を進んでいるというのに、
土佐の自分は藩主に御目見得も許されない、
それを嘆く武市半平太なのでした。


少し前でしたら、
このシーンが今ひとつ理解出来なかったかもしれません。
この後に龍馬は、

土佐には上士、下士ゆう差別があるがやき。
水戸や長州のようにはいかんですろ。


と、視聴者にも向けた説明台詞を吐くんですが、
この台詞を、この場所で掘り下げてみたいと思います。


上士と下士については、以前、
龍馬伝 その背景? 「上士と下士」 ~山内一豊の相撲大会~
お書きしました。
元祖水戸学(いずれお書きしたいです)の水戸藩はともかく、
長州と薩摩の両藩と土佐とは決定的に違う点があります。
上士と下士の身分制度は、その結果に過ぎないんです。

1600年、関ヶ原。

毛利家と島津家は西軍に属し、
戦に敗れたものの、
毛利も島津も徳川に迫害を受けながらも、
家は続き、そのまま250年余りを過ごしています。
一方、土州の藩主は徳川に功を認められた山内氏。
長宗我部家は廃され、
敗軍側の長宗我部氏の家臣たちは下士という下級武士として
押さえ込まれることになりました。

領地が縮小された(120万石→32万石)長州・毛利家、
なぜか領地はそのままであったものの、
無理難題を幕府から押しつけられ続けた薩摩・島津家、
彼らの思いと、勝利者側の土佐藩主、山内家とは
思いが全く違うのは当然なのです。

薩摩では常に幕府軍が攻めてくることを想定し、
それぞれの武技向上を奨励、
幕府からの隠密への警戒も怠らず、
領内に入った公儀隠密は
二度と薩摩を出られないという伝説まで生み出しました。

そして、長州では関ヶ原敗戦後、
毎年、正月に家老はこのような言葉を藩主の前で述べています。

徳川征伐の支度整いましてございます。
いざ、出陣のお下知をくださりますよう。


藩主答えて、

今はその時にあらず。隠忍自重し、武道に励むよう。

と返す。
この秘密の儀式が260年続けられたといわれています。
兵法の研究や軍事訓練も怠りません。
関ヶ原の敗戦を、いつまでも忘れない、
そのためのものでした。


今回の会席は攘夷のための情報交換であり、
倒幕という考えにまでは至っていません。
しかし、それが形を変えてくるのは周知の所。
維新の機運は薩摩、長州、そして土佐の下士たちから。

元々、徳川の天下を望んでいなかった彼らが、
倒幕へと動き出すのは、
ある意味当然なのでした。

ついでにいえば、
毛利も、島津も、そして、長宗我部も、
あの関ヶ原で、ろくに何もせずに負けています。

それなのに、徳川の仕打ちたるや、
その恨みが260年後に形になったともいえる訳なのです。

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