『日本のいちばん長い日』 (1967) 岡本喜八監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~



戦争を巡る議論が高まる今日、『日本のいちばん長い日』のリメイク版が上映されているのでオリジナル版を鑑賞。

この映画を最初に観たのは学生時代だったと思うが、玉音盤を探すシーンと三船敏郎演じる阿南陸軍大将自害のシーンのインパクトだけが記憶に残っていた。

映画では、その冒頭で終戦に至るまでの経緯を駆け足に描き、上映時間157分の大部分を1945年8月14日正午の御前会議での降伏決定から翌日正午の玉音放送までに当てている。

配役の顔ぶれの豪華さに制作会社東宝の意気込みが感じられ、作品の出来も緊張感あふれる展開で、迫力に満ちたエンターテイメントとなっている。

ただ、その映画に込められたメッセージに考えを至らせると、なかなか興味深いものを感じた。

まず一貫したテーマが戦争批判である。それは、戦争批判と明治維新批判をライフテーマとした岡本喜八監督(士官学校時代の空襲で多くの戦友の死を目の当たりにし、戦争に対して大きな憤りを感じたとされる)の起用でも明らかであろう。

戦争継続を訴える一部陸軍軍人の行動を英雄視することなく暴挙とし、また終戦に抗うかのように政府要人を襲撃する市民団を狂人のように描いている。また兵士や非戦闘員の死体の実写映像を数多く挿入し、戦争の非人道的側面を強調していた。

映画のエンディングのテロップで、太平洋戦争(映画では、GHQにより戦時用語と禁止された「大東亜戦争」をナレーションで使っていることは興味深い)で戦闘員及び非戦闘員の数多くの命が奪われたことが述べられる。その少なからず(特に非戦闘員)は戦闘国によって殺されたのだが、その責任を敵対国に求める印象は受けなかった。そこには、日本をして戦争に突き動かした責任を、自国内の経済的利権や権力志向に求める反省があると感じられた。できるならば、もう一歩進んで、日本が被害者という立場だけではなく、加害者となったことの反省もあれば更に平和的メッセージは強く出たと思われる。しかし1967年と言えば、第二次高度成長期が始まったばかりであり、まだそうした文化的な深化は十分でなかった可能性から、それでも十分だったのかもしれない。

映画に描かれた事柄は大部分史実に基づいていると想像されるが、終戦の決意が天皇個人の意思で決まったと強調されているのは、戦勝国である海外に対するリップサービスのように感じた。映画の中でも、外務省(ちなみに「外務省」は1885年の内閣制度創設以来、一度も名称を変えていない唯一の省)は戦局を冷静に理解し、戦争継続は不可能、敗戦は時間の問題であると理解していたと描かれている。しかし、陸軍は本土決戦による戦局挽回(それが結果、一億総自決になる可能性もあると理解)を強固に主張し、日本中枢の意見がまとまることはかなわず、日本民族の将来は天皇の聖断に委ねられたとされる。つまり、日本の無条件降伏は、日本が自主的に、しかも天皇個人の意思のみにより決定されたというのが、映画に描かれたものだが、それでは、天皇が本土決戦を選択すればどうなったかであるとか、なぜ広島原爆投下~ロシア参戦~長崎原爆投下という遅きに失したとしか評価できない戦争終結のタイミングまで天皇はその選択をしなかったのかという疑問が残る。

日本の無条件降伏に際しての唯一の条件は「国体護持」であり、それを許した戦勝国は正しい決断をした、なぜならば戦争を平和的に終結させたのがまさに国体の中心である天皇だからという対外的メッセージが映画にあるように感じた。

リメイク版で、その辺りの戦争評価、天皇の戦争終結の寄与に対する考えがどのように描かれているかは興味深いところである。

★★★★★★★ (7/10)

『日本のいちばん長い日』予告編