ジャーナリスト宇留嶋瑞郎氏を「創価学会御用ライター」等と呼ぶことの検証 11 瀬戸氏の発言③ | 断片的な日々 

ジャーナリスト宇留嶋瑞郎氏を「創価学会御用ライター」等と呼ぶことの検証 11 瀬戸氏の発言③

前回に引き続き、2008年11月10日における瀬戸弘幸氏の発言についての言及を行う。



追記
「そのような事実はない」ということに関しては、話題をそらしている人がおります。記事は公正・中立だとか、という内容ですが、私が問いかけてきたのはそのようなことではありません。

 取材した記事が何故創価学会に一旦渡されて、創価学会から入稿されているのですか?という疑問です。

 これを事実と認めれば、もうそれは何を弁明しようが通らないということです。普通ではありえないことだからです。

 これを何度も書いているのに、答えていないということの不自然さを、何故私の記事を毎回批評している人たちが気がつかないのか?

 もう、少し時間をあげますので、誰か早く聞いて真実を書いて欲しいものです。
Posted by せと弘幸 at 2008年11月10日 11:21



(「勘違いしているブログコメント者へ 【番外編】朝木事件ウオッチャー・ブログの正体(8)」より引用)



ここでポイントとなる部分は、「取材した記事が何故創価学会に一旦渡されて、創価学会から入稿されているのですか?という疑問です」という箇所である。

すなわち、瀬戸氏はこれまで、「ライターが取材した記事原稿が組織としての創価学会の手に渡されて、その広報部の手によって入稿されている」という記述を何度も繰り返しており、これがあたかも「公然周知のこと」「明らかな事実」であるかのように述べている。または、そのような前提として自身のブログで文章を進めている。


そして、その「~広報部の手によって入稿されている」という言及に関して、瀬戸氏は「確証を得ている」と複数回の発言を行っている。この発言を信用すると仮定したら、瀬戸氏は同言及を事実として確認している可能性があるということになる。


一方、一般的に記事原稿が取材対象や関係者によってチェックされる場合があることは珍しくはないものの、当該原稿が第三者によって版下に作成され、入稿されるケースはまずない。または工程作業上、考えにくい。


したがって、「~広報部の手によって入稿されている」という言及について、一般的にそのような事実があるという認識はないと考えるのが自然である。


にもかかわらず、瀬戸氏は同言及について具体的な確証を提示することを一切行っていないことが確認されている。瀬戸氏が「これを何度も書いている」と主張しているのは、単に同言及を繰り返しているに過ぎない。つまり、瀬戸氏はただ「~広報部の手によって入稿されている」という「フレーズ」または「表現」を繰り返しているだけであり、それ以上の行為をまったく行っていない。


そして、瀬戸氏は「これを何度も書いているのに、答えていないということの不自然さを、何故私の記事を毎回批評している人たちが気がつかないのか?」という言及によって、あたかも自らの発言の正当性を主張しているかのような態度を見せている。



これらの材料から推論すると、瀬戸氏は、「~広報部の手によって入稿されている」という一般には認知があまりなされていない、認識という点で低いと考えられる言及について、確証を提示することもなく、単なる「自らのフレーズの繰り返し」だけで事実であるかのように強調し、異論や反論が試みられているにもかかわらず、それが一切存在しないかのように主張していることとなる。


言うまでもなく、「否定説や反論がない」ということが、すなわち「その事実を認める」ということではないのは明確である。ある意見や仮説を証明し確認するためには、検証や確証が必要なことは、人間としての一般的な良識、あるいはごく基本的な論理的思考があれば瞬時にして理解できることである。


しかも、同言及についての否定説や反論の試みは、本連載が開始されたと同時に始まっている。この事実についても、ごく一般的な判断力と理解力があれば、容易に認識できるものと判断して差し支えないと考えられる。


かように考えていくと、瀬戸氏が「答えていないということの不自然さ」と主張する事実に、疑問というよりも荒唐無稽な不気味さを、筆者は感じざるを得ないものである。


(つづく)