そもそも事実確認はできているのか | 断片的な日々 

そもそも事実確認はできているのか

ごく最近になって東村山に登場してきた、ジャーナリストと称する瀨戸弘幸氏が、自らのブログ「せと弘幸Blog『日本よ何処へ』」において、「朝木明代元東村山市議殺害事件(18)」という記事をアップさせた。


この連載については最初から拝読申しあげているが、内容を議論検証する以前に、瀬戸氏の文章、特に同連載については、極めて感情的な表現が多く、論理の飛躍が随所に見られ、かつ文章表現そのものがはなはだしく精密さに欠けるために、論評すること自体に戸惑うことが少なくない。ゴシップ記事のように読み捨てされる文章ならともかく、重要な案件について文章をつづる場合、いかなる書き手であれ用語や表現に神経を注ぎ、精緻さと正確さを目指すものなのだが、かくも杜撰な文章に対しては、対処の仕様がないというのが正直な感想である。


さて、同連載については当初から大きな疑問があった。それは、タイトルが「朝木明代元東村山市議殺害事件」となっている点である。


仮にもジャーナリストを名乗る者であれば、その文章表現には細心の注意を払う。なぜなら、文章にして公開するということには、多大な影響と責任を負うからである。もし文章中の表現あるいは内容の誤りその他によって第三者に不当な不利益が生じた場合、取り返しのつかない事態にもなりかねないと理解しているからである。筆者も、それを経験的に知っている。だから、たとえどんなに瑣末なことであっても、執筆者は事実確認の作業に時間と労力を費やすのである。


件の故・朝木氏の死亡事件については、いまだ解明されていない部分が多いことから、「朝木議員転落死事件」と呼ぶこととしている。


さて、瀬戸氏が同連載を「朝木明代元東村山市議殺害事件」としているからには、相応の理由と確証がなければならない。これは絶対的な必然条件である。そして、「この事件は殺害事件である」という具体的に確認できる証拠、あるいは同等の価値のある事物を提示しなければならないことは言うまでもない。この点が明らかにされない限り、瀬戸氏がどんなに言を連ね語を重ねようとも、有効に機能しているとは感じられない。事実の上にこそ事実は積み重ねられる、それが調査報道の原則だからである。


瀬戸氏もジャーナリストを名乗る重みは、当然ながら感じているに違いないと筆者は考えている。そして、なぜ瀬戸氏が当然のことである「殺害事件であることの理由の説明」をしないのか、疑問に思うばかりである。