鶏と卵ではどちらが先か | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

2013.06.28のブログ『数学とはなんですか 8 数学は自然科学でない  』で、何が正しいかどうかを判断するには、二種類の違った判断があることを哲学者のカントが発見し、それをそれぞれ「分析的真偽」と「綜合的真偽」と名づけて分類して見せたことを紹介しました。

そこのブログで例を使って説明したように、「分析的真偽」とは言葉の定義の無矛盾性の分析だけで判断できる、言わば言語学的、人文科学的判断であり、数学の真偽はこれに属します。それに対して、「綜合的真偽」は言葉の分析だけではその判断ができず、観測や実験を通してのみ判断出来るもので、全ての自然科学的真偽の判断がこれに属します。

これに関連して今から2千年前に書かれたプルタルコスの『食卓歓談集』の中の「鶏と卵ではどちらが先か」で、この二つの分類を知らないために陥った真偽の判断の混乱の例を見つけました。今回はそれを紹介します。

この問題は自然科学的な真偽の判断ですから、「綜合的真偽」の判断に基づいてのみ、その決着が着く問題です。

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先ず、卵が先と主張するフィルムスの意見から:

「もし小さいものが大きいものの要素の始まりであると言うならば、鶏より卵が先だと考えるのが妥当だね。、、、卵は単純だが鶏はいろいろ要素が混じったものだね。一般論として、第一原因であるものが順序が第一であり、種子は第一原因だ。、、、卵というものは、種子として生まれた時すでにそこにあった性質が、動物へむかってある程度発展したものだということになる。それだけじゃない、生物が誕生する時最初に形成されるのは血管だそうだが、それなら同様に、含むものの方が含まれるものよりも先にあるべきだから、鶏よりも卵の方が先に生まれたと考える方が理屈にあっている。美術作品だってそうじゃないか。初めは形もなく不格好なものに形成され、そして後に各部分がはっきりした形になって、、、」

次が、鶏が先と主張するセネキオの意見です:

「、、、世界はあらゆるものの中で最も完全なもので、だからどんなものより先に存在していた。そして、完全なものは不完全なものよりも当然先に有ったと考える方が理屈にあう。すべての部分がそなわっているものの方が欠けた部分があるよりも先で、全体が部分より先だというのと同じだよ。部分がだね、自分がその一部であるところの全体がまだないうちに先に有った、などというのは全然理屈にあわないじゃないか。だから、人間が種子の部分であるとか、鶏が卵の部分であるとか言う者はいない。それよりは、鶏の卵とか、人間の種子とか我々はいう。、、、」

さて、この両者の意見を分析してみましょう。後者セネキオの意見は比較的純粋で分析がし易いです。この論法は典型的な「分析的真偽」の判断の論法です。彼は、「完全」と「不完全」、「全体」と「部分」、という言葉の定義に基づいて、この問題の真偽を論じようとしています。そして、何の根拠もなく、直感に基づいて「鶏は全体であり」「卵は部分である」と主張して、だから鶏が先だと結論しています。だから、この判断は自然科学的事実としては説得力がない。

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似たような論法は、例えば聖徳太子の十七条憲法第三条でも使われていおります。そこでは、

「三に曰く、詔を承けては必ず謹め。君をば則ち天とし、臣をば則ち地とす。天覆い地載せて四時順行し、万気通うことを得。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊るることを致さむのみ。、、、」

と述べて、「天皇は天であり」「臣民は地である」として、上の「鶏は全体であり」「卵は部分である」という言葉と同程度の根拠のない主張に基づいて、だから、「臣は天皇に従わなくてはならない」と結論しています。


一方、前者フィルムスの意見は、「綜合的真偽」と「分析的真偽」の両方が混じった判断をしている点で、少し論理の混乱がありますが、大勢は言葉の定義からではなく、観測に基づいた「綜合的真偽」の判断に基づいて結論を出そうとしています。だから、自然科学として、セネキオの論法よりもフィルムスの論法の方が説得力があります。

但し、敢えてフィルムスの論法にケチを付けるとすると、突っ込みどころが二つあります。その一つは、

「一般論として、第一原因であるものが順序が第一であり、種子は第一原因だ」

の論法は典型的な「分析的真偽」の判断です。この論法は、言葉の定義を弄んで結論を出そうとしているからです。

もう一つは、

「美術作品だってそうじゃないか。初めは形もなく不格好なものに形成され、そして後に各部分がはっきりした形になって、、、」

の部分が危ない。美術作品の場合、その作品を作ろうと言う意思の存在を仮定しています。そしてその意思には、完成品がどういう形になっているか前もって解っている。所謂「予定調和」という奴です。一方、実際の生物の進化の在り方や、物理学の「散逸構造の理論」によると、進化の過程とは単純なものから複雑なものへ、何のシナリオもなく偶然を契機として自発的に創出してきた過程です。それにもかかわらず、フィルムスのように美術作品を例に出してしまうと、「完全」とは、「不完全」とは、「全体」とは、「部分」とは、という人文科学的な言葉の定義に囚われてしまい、本来、「綜合的真偽」によって自然科学的にのみ結論が出せるはずのこの問題を、「分析的真偽」に基づいて人文科学的に判断してしまう罠に陥る可能性が出てしまうからです。

いずれにしても、近代物理学の成果の一つである「散逸構造の理論」によって、あらゆるものの進化は、単純なものから複雑なものへ、均質で普遍的なものから不均質で地方的なものへ、という方向に自発的に向かっていることが明らかにされておりますので、この議論の軍配は「卵が先」というフィルムスに上がります。