日本で最も好かれた女性 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

日本で最も好かれた女性って誰だと思います?

この質問は、今流行っている女性はだれ?なんて刹那的なレベルで聞いているのではありません。人間の人間たる所以は、

「今を大切に、自分を大切に、今を生きる」

なんてどんな下等な動物でも出来ることをすることではありません。人間だけが、遠い過去から遠い未来に渡って全体を眺めて自分の立ち位置を判断でき、また自分ばかりを大切にするのではなく、同胞を慈しむ能力がある。だから、この質問も、下等動物のようなレベルで「今」だけを見ず、永い目で日本史全体に渡って見る、そのような判断力を持った、人間のレベルで考えて下さい。

そんな永い目で見て、実はこの人が一番好かれたと言える女性がいるのです。それは和泉式部です。

彼女は、都会の洗練された男どもを手玉に取り、才色兼備の有名歌人であり、子育て抜群、さらに女性方の着こなしの流行も作り出すスーパースターでした。後で紹介しますが、彼女が初めて着物姿にピッタリのあの白足袋を履いてみせて、日本中の女性方を魅了させたのだそうです。

 

 

 

texas-no-kumagusuのブログ-和泉式部

 


彼女がどんなに人気があったか。その一番の証拠は、彼女のお墓の数にあります。彼女のお墓は九州の端から東北の端に至る隅々にあり、その数は200に近いそうす。どの村でも、和泉式部が晩年その村で過ごし、そこで亡くなったと主張し、それを誇りにしていました。

因に、日本ではお墓の数が二番目多いのが小野小町で、やっと三番目に男性が出てきます。それは弘法大師だそうです。

墓が200近くもあるとは、日本は流石に歴史が長い国なんですね。私の知っている限り、歴史の短いアメリカで一番沢山のお墓を持っているのは、開拓時代の中西部のならず者ビリー・ザ・キッドです。彼は三ヶ所で亡くなったことになっており、だから、三つのお墓があります。私はその内の一つを見たことがあります。そのことをアメリカの友人に話したら、

「どの墓のことだ。彼には少なくとも三つの墓がある。」

と言われて、このことを知ったのです。たったの三つだなんて、アメリカの歴史の浅さを如実に表していますね。

和泉式部の子育てと言えば、歌合わせで彼女の娘の小式部内侍を馬鹿にしてからかった四条中納言藤原定頼に対して、その娘さんが、

   大江山いく野の道は遠ければ まだ文も見ず天の橋立

と歌を詠み、定頼をギャフンと言わせた話が有名ですね。歌人として優れていたばかりでなく、このように立派な娘を育てたのです。

さて足袋の話ですが、聞く所によると和泉式部のお父さんは鹿だったそうです。だから和泉式部の足の指は二本しかなかった。そこで和泉式部のお母さんはそれを哀れんで、そのことが分らないように足袋を作ったそうです。彼女がその珍しい履物を履いて社交界にデビューしたら、その斬新さに女どもは魅了され、瞬く間に日本中に広がったとか。和泉式部の人気は、こんな伝説まで作って彼女の斬新さを讃えるほどだったのです。

一寸真面目に、何で彼女にそんな沢山のお墓があったか説明しましょう。

和泉式部の時代、女性方の流行はもちろん京で作られていました。その当時、京都誓願寺で訓練を受けた多くの巫女さんたちが夫の山伏と連れ立って、全国津々浦々の村を徘徊していました。巫女さんは、その村で最近亡くなった爺さんや婆さんの霊媒になったりして、

「死んだ後でもあの世で幸せにやってるぞー」

なんてなことを言って商売をしていた。その間、夫の山伏は、京都の著名な神社のお札などをその村に売って歩いていた。

でも、そんな夫婦が田舎の村なんかにやってくるのは滅多にあることではない。だから、そんな巫女さんがやって来ると、村の女たちは、亡くなった爺さん婆さんの消息ばかりでなく、今、京でどんな服が流行っているか、どんな髪形が流行っているかなどを巫女さんから聞き出そうと、興味津々で集まって来た。巫女さんは京の最新情報の重要なメッセンジャーでもあったのです。

巫女さんはきらびやかな京の生活を話し、また、京で流行っている和歌などを紹介しました。だから、田舎の女性と比べて教養が溢れており、村の女性たちの羨望の的でもあったのです。

でも、その巫女さんたちもそのうち年老いて旅が出来なくなり、気に入った村に定着するようになる。村では、都会から来た教養ある女性が住み着くようになると、京でのいろいろの出来事を聞けるようになる。もちろん、そんなときに、当時スーパースターだった和泉式部の話も頻繁にでてくる。柳田國男は、その和泉式部の話を、巫女たちはしばしば一人称で話していたらしいと言っておりました。だから多くの村で、この教養があり、しばしば当時の流行っている和歌を差し挟んで話しができる巫女さんを、そのうちに和泉式部に違いないと思うようになった。そして、その巫女が年老いて亡くなると、そこに和泉式部の墓を建てた。

だから、こんなにも沢山の和泉式部の墓が日本中の隅々にあるのだそうです。