数学は男と女の愛を記述するための言語である | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

今回は珍しく私専門物理話です。

 

おそらく皆さんは

 

「数学は自然を記述するための言語である」

 

というガリレオの有名な言葉を聞いたことがあるかも知れませんね。


ガリレオ

ガリレオ

 

その通り。私の専門は理論物理なんだけど、写真をクリックして拡大して下さると分るように、私のオフィスの黒板にはミミズがのたくったような得体の知れない数学の記号が所狭しと書いてあります。

 

texas-no-kumagusuのブログ-黒板

でもこのガリレオの言葉って、途轍もなく突拍子もない神憑かった言葉なのですよ。

現在の若い人には、これだけ高度で複雑に進歩した数学の論理を考えれば、これで自然現象を説明できるのは当たり前ではないかと思われるでしょう。また、現に数学を使って自然現象を記述して成功している例が巨万とあるではないかとも言うでしょう。 それに数学の歴史を知っている方なら誰でも、数学を語るのになくてはならない微分積分学だって、フーリエ解析だって、固有値問題だって、その発展にみな物理学がいつも決定的な役割をして来たではないか、と言うかも知れません。

 

一寸脱線しますが、「微分積分」は「微かに分り、分った積り」と読みます。だから難しい学問なのです。 

 

話しを元に戻して、でも、ガリレオの時代に知られていた数学って、何だかご存知ですか? 足し算、引き算、掛け算、割り算、そう、小学校で習う算数と、それに、平面の図形を扱う幾何学だけだったんですよ。現在の物理学を論じるのに欠くことの出来ない微分や積分の概念は、ガリレオが亡くなったずっと後のニュートンによって初めて出てきたのです。

 

そして、ガリレオ以前には、こんな未熟な算数が自然を理解するのに有用な道具であるという証拠はまだほとんどありませんでした。それなのに数学による記述を信じたなどガリレオは神憑かったと言うほかありません。 

 

例えば、今もし誰かが、

 

「数学は男と女の愛を記述するための言語である」

 

とでも言ったら、それを眉唾だと思う人が多いでしょう。何故なら、その主張が正しいとする証拠がまだ十分ないからです。

 

だから、ガリレオの時代に自分を持って行くことが出来る人から見ると、ガリレオの言葉が如何に気違いじみていたか分りますね。実は自然科学の発展の歴史は、このガリレオのような神懸かりのオンパレードなのです。全てが神懸かりだったと言っても過言ではありません。

 

自然科学は、たまたま数学という、抜きん出て精密で論理的な言語を使って記述されているので、ついその発見も何か筋の通った論理の積み重ねから生まれてくると誤解されがちです。確かに、どの教科書も筋の通ったことしか書いてありませんので、勉強ができる人ほど、そんな誤解をしている方が多いようです。

 

でも、実際には先ず始めに得体の知れない神懸かりがあります。まだ確認されていないのにそれを信じ込んで、それに数学的構造を入れて巧く行くかどうか試してみる。 そして、運が良いと、その神懸かりに見事な数学的構造が当てはまることがある。

 

殆どの神懸かりでは、そんな巧い話しはありません。でも、稀にその神懸かりが巧く行くことがある。そんなとき人々は、この科学者には物理的洞察力がある、なんちゃって賞賛しています。そして、一旦その域に達したら、後は、論理的に筋の通った形式で自分の発見した事実を皆に提示するのです。

 

だから、先ず神憑かって真理を発見し、そして後から、それが正しいことを証明する論理を見つける。決してその逆ではありません。「既知」の論理を積み重ねて「未知」の事実を発見するなんて、それこそ、その言葉の持つ論理の破綻ですね。コンピュータは論理的に整合したことしか処理できません。だからどんなに優れたコンピュータでも、人間のこの神懸かりには敵わないのです。

 

ところが、受験戦争に勝ち抜くためには、教科書の筋の通ったことを出来るだけ効率よく覚える必要がある。この論理の発見に至る神懸かりに興味を持っているような人は、先ず受験戦争に負けてしまいます。だから、所謂一流大学出のほとんどの科学者は自ら新しい世界を見付け出すことが出来ずに、その時代その時の流行りの問題を追いかける二流の連中です。

 

そもそもそれが流行った理由は、誰が見たってそれが正しいと認められる段階まで論理が洗練されて来たからでせす。だから神憑かれない人でも、言われた計算をやっていれば、意味のある結果が出てくることが保証されています。流行に無関係に神憑かろうとしている人に、そんな保証は全くありません。そんな不安を物ともせず、一人我が道を行って流行を創り出すのが一流の科学者です。そしてその流行を追いかけるのが二流なミーちゃんハーちゃんなのです。

 

でも今言ったように、流行りの問題をやらないと中々論文が書けず、大学や研究所への就職が難しい。何せ何時でてくるか分らない神懸かりを待っていなくてはならないのですから。だから、科学を志す一流大学の若者たちは

 

 

「就職か、それとも学問か、それが問題だ」

 

 

 
texas-no-kumagusuのブログ-ハムレット

 

 

 

って板挟みになって苦しんでいるのですよ。まっ、大抵は、霞を食いながら神懸かりを待っている度胸もなく、食うために流行を選んで一生二流で終わってしまいますが。

 

 

初めに神懸かりがあった。

神懸かりは天と地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、

神懸かりの霊が水の面を動いていた。

神懸かりは 「論理よあれ」 と言われた。

こうして論理があった。

神懸かりは論理を見て善しとされた。

神懸かりは論理と当てずっぽうを分け、論理を明かりと名づけ、

当てずっぽうを闇と名づけた。

こうして夕べがあり、朝があった。

発見の第一日目の始まりである。