和智誠春 (わち まさはる) | げむおた街道をゆく

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和智 誠春(わち まさはる、 - 永禄11年(1568年))は、備後の国人和智氏の当主。父は和智豊郷(とよさと)。実弟に湯谷元家(ゆたに もといえ、名は湯谷久豊(ひさとよ)とも)、子に元郷(もとさと)がいる。妻は毛利氏家臣の福原広俊の娘。
和智氏は藤原秀郷の流れを組む武士で、波多野氏などと同族。
室町期の当主(時実・豊実・豊広・豊郷)は代々、備後守護の山名氏に臣従し、また守護からは偏諱の授与を受けており、誠春も山名誠豊から1字を受けたものと推測される。
戦国期は、出雲の尼子経久の影響力が強まると、他の備後の国人とともにこれに従ったが、のちに安芸の毛利元就が力をつけると、やはり他の備後の国人と同様それになびくようになった。父の豊郷は1529年、毛利元就が石見の国人高橋氏を討滅させたときに松尾城の高橋重光(=高橋弘厚?)をともに討つなどこれに協力し、誠春本人は1555年の厳島の戦いに毛利方として参戦している。
1563年、元就の子の毛利隆元を饗応した直後に隆元が急死し、元就の不信と憎悪を買う結果になったのか、のちに伊予へ遠征する途中弟の元家と厳島神社に監禁された。そして1568年、脱走をはかり神社本殿に立て篭もったが、結局弟とともに殺害されたという。没年は1569年とする説もある。
なお、誠春の甥(弟・元家の子)である湯谷実義(さねよし)は元就に抵抗し滅ぼされたものの、誠春の息子の元郷は元就に謝罪し和智家の存続を許されている。


以上、Wikiより。



和智誠春