吉江宗信 (よしえ むねのぶ) | げむおた街道をゆく

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吉江 宗信(よしえ むねのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後国の国人領主吉江氏の当主。西蒲原郡弥彦庄吉江の吉江城城主。魚津城の戦いにおける守将の一人。



ー 生涯 -
永正2年(1505年)、吉江景宗の子として生まれる。
守護上杉氏、長尾氏(長尾上杉氏)に仕える。上杉謙信からは上杉家一門として信任され[要出典]、越中国や下野国を転戦した。
天正6年(1578年)に謙信が急死し、上杉家の内紛(御館の乱)が起こると、上杉景勝方に付き織田氏配下の柴田勝家軍が越中戦線で攻勢に出、増山城を守備していた宗信は織田方に寝返った石黒成綱の居城木舟城を攻め落とすなど老体に鞭打って奮戦した。天正9年(1581年)には、孫に当たる中条景泰とその弟吉江長忠に越中方面で功を挙げたら隠居分として得た神保四郎左衛門の遺領の内それぞれ500俵、300俵分を分け与える旨の約束をし士気を鼓舞している。しかし、やがて援兵も頼めない状況となり、物資も枯渇し魚津城に長期にわたって篭城した末、子の吉江景資や孫の寺島長資、中条景泰など一族の多くと、山本寺孝長・竹俣慶綱らの諸将と共に自害した。本能寺の変の翌日のことである。享年77。法名「永輝院殿顕宗義忠居士」。墓所は米沢林泉寺(場所は山形県米沢市林泉寺、移転前の越後林泉寺は新潟県上越市中門前)。


以上、Wikiより。



吉江宗信