横山長知 (よこやま ながちか) | げむおた街道をゆく

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横山 長知(よこやま ながちか、永禄11年(1568年) - 正保3年1月21日(1646年3月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。横山長隆の子。通称は三郎、山城守、大膳。妻は前田長種の養女(実は妹)。子に康玄、長次(興知、旗本横山家祖)、横山長治、知清(兄興知の養子)、兼知、重知(守知)、長堅(豊知)、女子(玉井市正貞清妻)、女子(玉井市正貞清後妻)、女子(山崎長門光武妻)、女子(三輪主水三信妻)、女子(成田助九郎守政妻)、女子(水野内匠里成妻)がいる。



ー 生涯 -
永禄11年(1568年) 、横山長隆の子として誕生。
丹波円通寺で修練に励み、後に父・長隆と共に前田利長に仕える。父が賤ヶ岳の戦いで戦死すると、利長から200石を拝領して家督を引き継ぐ。豊臣秀吉の死後、主君・利長が徳川家康から謀叛の嫌疑をかけられた際には大坂城に赴き、家康に陳弁している。横山は親徳川派の立場にあったようで、関ヶ原の戦いでは利長の命を帯び、前田家中における反徳川派の中心人物であった大聖寺城城主・太田長知を殺害している。
利長が家督を異母弟の前田利常に譲って隠居すると、これに随従し自らも剃髪。一旦は致仕するが、その後、再度出仕して利常に仕える。大坂冬の陣では金沢城の留守を務め、夏の陣では参陣した。また、本多政重と共に大坂城の修築工事も担当している。
正保2年(1645年)、嫡男の康玄に先立たれ、翌3年(1646年)に後を追うように死去した。家督は孫の忠次が相続、子孫は代々加賀藩家老を輩出する家系として栄達した。次男・長次は人質として江戸に赴きのち江戸幕府に仕え5千石の旗本寄合となった。


以上、Wikiより。



横山長知