真田大助 (さなだ だいすけ) | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

真田 幸昌(さなだ ゆきまさ)は、江戸時代前期の武将である。通称は大助。真田信繁(幸村)の嫡男、母は竹林院(大谷吉継の娘)。



ー 生涯 -
父・信繁が関ヶ原の戦いで流されることとなった紀伊国九度山(和歌山県九度山町)で生まれる。祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名された。
慶長20年(1615年)、父・信繁とともに九度山を脱出して大坂城へ入り、大坂夏の陣に出陣して敵の武将を討ち取るという大功を挙げたが、その後父に大坂城の落城を見届けるように命じられる。この時、幸昌は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、父の命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返したとされる。そして大坂城落城後、極めて若年であり、また豊臣に特別な恩顧もないことから速水守久らから脱出を勧められたが拒絶し、主君の豊臣秀頼が切腹すると、幸昌は「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで介錯を加藤弥平太にして切腹(加藤と刺し違えたとも)。享年は13から16の間で諸説ある。
墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。また、父の信繁同様に各地に生存伝説が残る。
現在の大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(大助)の名前も記されている。鹿児島市谷山には幸昌が逃がしたとされる秀頼公の墓が残されている。
幸昌は、豊臣秀頼の子・天草四郎時貞(豊臣豊禎秀綱)を総大将に立てて島原の乱を起こしたという説もある。幸昌は、鹿児島では「芦塚中左衛門」と呼ばれていたことから、その子孫(山田芦塚家)は「中の家」と呼ばれるようになり、その墓は雲仙旧山田村牧之内にある。ただし島原では、「中」が「十」と誤記され「芦塚十左衛門」と呼ばれていた。


以上、Wikiより。



真田大助