松竹俳優録15 望月優子(美枝子) | お宝映画・番組私的見聞録

松竹俳優録15 望月優子(美枝子)

「カルメン故郷へ帰る」(51年)で、高峰秀子の姉役を演じたのが望月優子である。当時34歳であったが、松竹の契約女優としては、これが出演第1作目であった。後に母物映画女優として知られることになるが、イメージとしては地味ではないだろうか。しかし、この人の生い立ちは非常に複雑で、経歴も波乱に富んでおり、それを追っていくだけで長編ドラマができそうでなのである。
望月優子は17年生まれ。本名は美枝子といい、母は下宿屋の娘で父は板橋というその止宿人であった。しかし、二人は結婚に至らず、3歳のときに子供のいないメリヤス商・里見夫婦の養女となっているので、本名は里見美枝子となる。まもなく、養父は養母の愛人を傷つけた罪で1年間の刑務所暮らしを送ることになる。そして1年後の出所の直前に養母は家出してしまったのである。
しばらくして養父は後添えを迎え、彼女にとって義理の弟となる二人の男児を設けた。彼女は29年に尋常小学校を卒業するが、女中奉公を嫌って、養父にも黙って高等女学校を受験し入学する。しかし、制服も買えず、授業料も続かずで1年ほどで中退に追い込まれたのである。
30年5月、養父の弟の娘二人が入団していた榎本健一のカジノフォーリーに彼女たちの口利きで入団する。エノケンに「脚を出してみな」と言われ、スカートを少し上げると「あしたから、おいで」と言われたのが入団試験だったという。彼女は望月美枝子の芸名でコーラスガールの一人として初舞台を踏む。
先輩には5歳上の竹久千恵子、1歳上の梅園竜子がいた。まもなくエノケンが脱退し、新カジノフォーリーが旗揚げされる。新しく振付師として入団した石田守衛の指導でバレエの基礎訓練を受け、梅園と二人でデュエットを踊るまでになった。
32年にカジノフォーリーを退団し、竹久が新宿のムーラン・ルージュに入団するにおよび、望月も踊子として入団する。この頃、養父が他界し、小学生だった義理の弟二人の面倒を見ることにする。また、自分を養女に世話した女性に教えられ、実母と再会。実母と鍍金業の夫との間には6人の子供がおり、その三女が中村雅子で後に望月の手引きで女優となっている。雅子は後に22歳上の加藤嘉と結婚するので、加藤は望月の義弟という関係になる(加藤の方が4歳上)。
35年8月、古川緑波一座に誘われ入座するが、翌36年3月にムーランに戻り、11月には再び退団。宝塚ショウ、新生新派などを経て、41年に出版社に勤めていた鈴木康之と見合い結婚をする。媒酌人は川端康成夫妻であった。
新生新派にいた頃、「夫婦太鼓」(41年)で映画に初出演しているが、映画自体にさほど興味はなく、以降は戦後になるまで映画出演はない。
43年に長女を出産、45年の終戦直後に長男を出産するが直ぐに亡くなっている。
とここまでが戦前編。これでも端折って書いているのだが、次回の戦後編に続く。