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2017-05-25 00:05:09

松竹俳優録15 望月優子(美枝子) その2

テーマ:俳優

前回の続きである。47年7月、望月美恵子は、滝沢修、宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場、略して民芸(第一次)に参加した。
翌48年に、松竹の「四人目の淑女」に出演の声がかかった。映画は戦前の「夫婦太鼓」以来だったが、生活のためにと出演する。彼女はナイトクラブの踊り子の役で、踊り子としてのキャリアを買われたに過ぎなかった。
民芸の俳優がそろって共産党に入党したとき、彼女は同調せず、49年民芸解散後、再び松竹の「初恋問答」「夢を召しませ」に脇役で出演した。50年12月、民芸は劇団民芸として再建され、彼女も参加するが、まもなく松竹にすすめられて契約、民芸を退団して映画に転身した。
でその契約第一回出演が「カルメン故郷へ帰る」(51年)だったのである。以降、松竹作品におかみさん、おばさん役で使われるようになり、「飛び出した若旦那」(51年)から、20年以上使っていた芸名の望月美恵子を望月優子に改めている。
そんな彼女が木下恵介の「日本の悲劇」(53年)で、突如主演に抜擢される。ラストで彼女演じる戦争未亡人は、電車に飛び込んで自殺するのだが、本当に飛び込んだと思わせるような迫真の演技だったという。この演技で、毎日コンクール主演女優賞に輝いたのである。
春秋プロに招かれ、「狂宴」(54年)で二度目の主演、東宝の成瀬巳喜男監督にも招かれ「晩菊」(54年)に出演。有馬稲子、杉村春子、沢村貞子らと共演し、第6回ブルーリボン助演女優賞を受賞している。
55年からはフリーになり、57年には東映で今井正監督の「米」に出演。夫役が加藤嘉で、娘役に抜擢されたのが前年にデビューしたばかりの中村雅子である。前回書いたとおり、18歳離れているが中村雅子は異父妹である。役柄どおり、母子にしか見えないけれども。
中村雅子と加藤嘉はこの後も共演が続いたこともあってか、翌58年に結婚したのである。望月もよもや、自分よりも年上の男と妹が結婚するとは思わなかったであろう。映画の方はキネマ旬報ベストテンの第一位に選ばれ、望月も今度はブルーリボン主演女優賞を受賞している。
71年、参議院議員選挙に社会党公認で全国区で立候補。田英夫、安西愛子に次いで第3位で当選した。しかし、77年7月の参議院議員選挙では全国区で55位となり落選し、社会党を離脱。10月からは、舞台で「獅子」を制作・演出を兼ねて上演していた。しかし、その3日目には体調が悪いと入院し、やがて昏睡状態に陥った。そして、12月1日にはそのまま亡くなったのである。病名は転移性肺腫ガンで、60歳であった。まさに波乱万丈な人生だったといえよう。

 

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2017-05-21 12:31:41

松竹俳優録15 望月優子(美枝子)

テーマ:俳優

「カルメン故郷へ帰る」(51年)で、高峰秀子の姉役を演じたのが望月優子である。当時34歳であったが、松竹の契約女優としては、これが出演第1作目であった。後に母物映画女優として知られることになるが、イメージとしては地味ではないだろうか。しかし、この人の生い立ちは非常に複雑で、経歴も波乱に富んでおり、それを追っていくだけで長編ドラマができそうでなのである。
望月優子は17年生まれ。本名は美枝子といい、母は下宿屋の娘で父は板橋というその止宿人であった。しかし、二人は結婚に至らず、3歳のときに子供のいないメリヤス商・里見夫婦の養女となっているので、本名は里見美枝子となる。まもなく、養父は養母の愛人を傷つけた罪で1年間の刑務所暮らしを送ることになる。そして1年後の出所の直前に養母は家出してしまったのである。
しばらくして養父は後添えを迎え、彼女にとって義理の弟となる二人の男児を設けた。彼女は29年に尋常小学校を卒業するが、女中奉公を嫌って、養父にも黙って高等女学校を受験し入学する。しかし、制服も買えず、授業料も続かずで1年ほどで中退に追い込まれたのである。
30年5月、養父の弟の娘二人が入団していた榎本健一のカジノフォーリーに彼女たちの口利きで入団する。エノケンに「脚を出してみな」と言われ、スカートを少し上げると「あしたから、おいで」と言われたのが入団試験だったという。彼女は望月美枝子の芸名でコーラスガールの一人として初舞台を踏む。
先輩には5歳上の竹久千恵子、1歳上の梅園竜子がいた。まもなくエノケンが脱退し、新カジノフォーリーが旗揚げされる。新しく振付師として入団した石田守衛の指導でバレエの基礎訓練を受け、梅園と二人でデュエットを踊るまでになった。
32年にカジノフォーリーを退団し、竹久が新宿のムーラン・ルージュに入団するにおよび、望月も踊子として入団する。この頃、養父が他界し、小学生だった義理の弟二人の面倒を見ることにする。また、自分を養女に世話した女性に教えられ、実母と再会。実母と鍍金業の夫との間には6人の子供がおり、その三女が中村雅子で後に望月の手引きで女優となっている。雅子は後に22歳上の加藤嘉と結婚するので、加藤は望月の義弟という関係になる(加藤の方が4歳上)。
35年8月、古川緑波一座に誘われ入座するが、翌36年3月にムーランに戻り、11月には再び退団。宝塚ショウ、新生新派などを経て、41年に出版社に勤めていた鈴木康之と見合い結婚をする。媒酌人は川端康成夫妻であった。
新生新派にいた頃、「夫婦太鼓」(41年)で映画に初出演しているが、映画自体にさほど興味はなく、以降は戦後になるまで映画出演はない。
43年に長女を出産、45年の終戦直後に長男を出産するが直ぐに亡くなっている。
とここまでが戦前編。これでも端折って書いているのだが、次回の戦後編に続く。

 

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2017-05-18 00:13:08

松竹俳優録14 小林トシ子

テーマ:俳優

小林トシ子と聞いて、ピンと来ない人もいるかもしれないが、日本初の総天然色映画「カルメン故郷へ帰る」(51年)で、高峰秀子演じるカルメンの相棒のストリッパー朱美を演じた人といえばわかる人も多いのではないだろうか。
小林トシ子は、32年築地生まれ。松竹で踊りといえばSKDを思い浮かべるが、彼女は日劇ダンシングチーム(NDT)の出身である。
46年高校を中退して、NDTに入団。早くから素質のある器用な踊子として嘱望されていたという。49年には「白鳥の湖」のヒロイン・オデッサに抜擢されている。
同49年、木下恵介監督にスカウトされ「破れ太鼓」で映画初出演を果たす。知ってる人いると思うが、後の人気ドラマ「おやじ太鼓」の原型となった作品で、頑固おやじをあのバンツマこと阪東妻三郎が演じている。その長女役が小林である。ちなみに、この役は元々高峰秀子が予定されていたという。その高峰と「カルメン」でコンビを組むことになるのである。
この成功を機にNDTを退団し、松竹に入社することになったのである。50年、俳優としてはど素人なので、木下監督の命で俳優座養成所に1年間通うことになり「実験女優」として話題になった。
51年、三國連太郎のデビュー作である「善魔」に助演した後の「カルメン故郷へ帰る」である。当時まだ19歳であった。その後も木下作品には13本に出演。高峰との共演が多く、続編である「カルメン純情す」(52年)や「二十四の瞳」(54年)でも大石先生(高峰)の教え子の一人を演じている(もちろん成人後の姿)。
56年には、草月流家元・勅使河原蒼風の長男・宏と結婚。後に勅使河原は映画監督となる。60年に松竹を離れ、フリーとなったが専ら舞台が活動の中心となっていた。
そのせいか、やはりカルメンで演じたマヤ朱美でしか彼女を知らないという人も多い気がする。木下作品以外にももちろん出演していたが、高峰は「彼女の感じを生かす人がいない」と55年に行われた木下との会談で語っている。
小林トシ江という女優もいるが、もちろん10歳下の別人。どちらも本名ではあるが、実際は利江と書くので、肖ったとしか思えない。
さて、小林トシ子だが、80年代も女優を続けており、石井ふく子、橋田寿賀子の手掛ける作品に顔を出していた。花王愛の劇場「ああ嫁さん」(88年)が記録上最後の映像作品となっている。
あまり話題にならなかったと思うが、昨年末の12月29日、彼女は亡くなったという。84歳であった。

 

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2017-05-14 18:43:06

松竹俳優録13 瞳 麗子(麗香)

テーマ:俳優

泉京子と同じ「海人舟より 禁男の砂」(57年)で映画デビューしたのが瞳麗子である。
瞳麗子は38年生まれで、本名は林直美(旧姓)という。54年に高校を中退して、松竹音楽舞踊学校に入っている。
57年に「東京踊り」でSKDの初舞台を踏むが、これが堀内真直監督の眼にとまり、前述の「禁男の砂」で映画デビューの運びとなったのである。役柄はグラマーな海女の一人であった。元来踊り好きなため、撮影が終わると、すぐに浅草に駆け付け夜の舞台に立つという日々が続いていたという。
SKDでは、「映画専科」を設け、彼女と姫ゆり子、山鳩くるみ、九条映子らが入っていたようだ。
この後は映画女優の道を歩き始め、「気違い部落」(57年)や「続禁男の砂」(58年)などに出演。「有楽町0番地」(58年)では主演に抜擢されている。相手役は高橋貞二であった。「バラ少女」(59年)では三上真一郎、「素晴らしき十九歳」(59年)では津川雅彦を相手役にヒロインを演じている。
しかし、彼女のハートを射止めたのは「あんみつ姫の武者修行」(60年)で共演した倉多爽平であった。31年生まれで、どちらかといえば地味な存在であろう。名前は知っているのだが、どんな顔だっけというのが正直なところである。
倉多とは63年に結婚するのだが、瞳の父が病床にあったため、父にも見てほしいとテレビ番組「ここに幸あれ」でのテレビ結婚式を実行した。簡単にいえば、テレビで結婚式を挙げるという番組で、佐田啓二や久我美子も出席したという。
同じ映画でデビューし、ほぼ同じタイミングでやはり俳優同士で結婚した泉京子の結婚は失敗だったと言えるが、こちらは平穏な(多分だが)結婚生活を送れたようである。息子はプロゴルファー(額賀晴生)、娘は歌手(弘妃由美)になっている。
結婚を機にフリーとなり、仕事量は徐々に減らしていったようである。一時期、瞳麗香を名乗っていたことがあるのだが、個人的には瞳麗子としてよりも印象に残っていたりする。「無用ノ介」(69年)の最終話にゲスト出演したときが、瞳麗香名義であった。そのあとの「見合い恋愛」でレギュラー出演した際、当初は麗香だったのが途中で麗子に戻ったようである。正確にはわからないが、どうやら麗香だったのは69年の一時期だけだったようだ。
出演最終作となっているのはテレビは「赤い激流」、映画は「愛情の設計」で、どちらも77年の作品である。後者は古巣の松竹とサンミュージック提携作品で、主演は桜田淳子と佐藤祐介で、瞳は佐藤の母親役だったようである。

 

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2017-05-11 00:21:30

松竹俳優録12 泉 京子(+清川新吾) その2

テーマ:俳優

泉京子は清川新吾するのだが、共演作を調べるとをドラマでは「恋愛ショールーム」(60年)というのを見つけた。詳細は不明だが、特に二人が主役と言うわけではなかったようだ。映画では「抱いて頂戴」(61年)といので共演しているが、主演は桑野みゆきと杉浦直樹で渥美清や由利徹なんかも出ている。この作品は彼女の松竹所属としての最後の作品になったようである。
とにかく泉京子と清川新吾と結婚するわけだが、清川といえば役柄で言えば、善人づらで登場するが実は犯人だったり嫌な奴だったりといったイメージが強い。実は清川はそのイメージどおりの奴だったらしい。
当時の週刊誌にはこんな風に書かれていたようだ。「粗暴で邪険、刹那的な放蕩生活を続ける清川が作った膨大な借金を返済するために映画界の復帰を余儀なくされ、挙句の果てには献身的な泉を疎んじ始める」。もちろん、どこまで本当かどうかは定かでないが、イメージ的にもあり得ると思えてしまう。
こうして68年には、4年余り続いた苦難の結婚生活は終わりを告げたという。復帰作はあの東映の人気シリーズ「不良番長」の第1作であった。
個人的には、数年前に放送された「特別機動捜査隊」のゲストで見かけた記憶があったが、68年と69年の二度ゲスト出演したようである。確かダンス教室かどこかでレオタード姿を披露していた記憶があるのだが、普通にスタイルのいい人で、そこまでグラマラスという感じには見えなかったような印象がある。
記録上最後の映像作品は「ジャングルプリンス」(70年)になっているが、実はこの作品は5年間お蔵入りになっていたらしく、撮影自体は65年に行われたという。しかし、その頃泉は休業中だったはずだが…。この番組は一度もソフト化されておらず、詳細は不明で、レギュラーなのかゲストなのか、はたまた本当に出演したのかどうかも確かめようがないのである。
さて、泉京子だが復帰して二年足らずの70年には芸能界に見切りをつけ、実家である浅草の牛鍋屋を継いだという。11年現在、大女将として店を切り盛りしていたという。
同時代の同じセクシー系の女優でも新東宝の三原葉子や万里昌代に比べると、泉京子が語られることは少ない気がする。これは松竹が現在も存在しているのに対し、新東宝は50年以上前に潰れ、研究本や関連書籍も沢山出ているということもあるだろう。しかし、松竹でなかったらもっと活躍していたような気もするのである。

 

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2017-05-07 19:15:39

松竹俳優録12 泉 京子

テーマ:俳優

前回、「必殺必中仕事屋稼業」で津川と小坂のゲスト回が今週放送されると書いたが、GWによる特別編成で一週伸びてしまった。確認は怠らないようにしないといけないと思った。
さて松竹は、あまりセクシー系映画のイメージがない会社だが、新東宝に前田通子が登場すると、それに呼応するように泉京子を登場させたのである。
泉京子は37年浅草生まれで、本名は竹中久代という。55年に高校を中退し、松竹演技養成所に入り、同年の卒業と同時に松竹に入社した。デビュー作は「ホガラカさん」(56年)で、野添ひとみの友人役であった。その後は端役が続いたが、「海人舟より 禁男の砂」(57年)に突如ヒロインの海女さん役に抜擢されてから、一気に注目を浴びるようになった。
美貌はもちろんだが、身長は165cmあり、3サイズはウィキペディア情報によれば、上から96-56-100というグラマラスボディだったという。松竹は彼女を「和製シルヴァーナ・マンガーノ」と謳い、等身大のポスターを使い、さらに「濡れた素肌!揺れる乳房!…」などと当時としては刺激的な言葉で宣伝を展開した。
映画は大木実とのコンビで大ヒットし、年1作のペースでシリーズ化され60年まで4作が公開された。これ以外でもその肢体を生かした約が多く「オンボロ人生」(58年)では、役名もそのまま「グラマー」だったりした。
意外なところでは、小津安二郎の「お早よう」(59年)に派手好きの若夫婦(夫役は大泉滉)に出演したりしている。60年以降は本数が減りはじめ、61年には松竹を離れている。
62年にはわずか6本のみの配給で消滅した大宝の「波止場で悪魔が笑うとき」に出演、63年には大蔵映画「海女の怪真珠」に、馴染みの?海女役で出演している。本作ではかつての赤胴鈴之助である梅若正二、大蔵貢の愛人と言われた扇町京子らと共演している。泉京子はこれを最後に一旦映画界を去っている。この直後、松竹で一緒だった一歳下の清川新吾と結婚している。この結婚のために引退したと思われるが、結局この清川のために復帰することになるのである。
とりあえず続く。

 

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2017-05-04 00:50:35

松竹俳優録11 小坂一也(+津川雅彦)

テーマ:俳優

前々回に山本豊三が58年に松竹入りしたと書いたが、実は津川雅彦、川津祐介、小坂一也も58年に松竹入りしているのである。この四人に石濱朗を加えた五人が主演なのが、やはり前々回に紹介した木下恵介監督作品である「惜春鳥」(59年)である。この映画には「日本初のゲイ映画」などと揶揄されたりもしているらしい。
当時、この中では小坂一也が一番の有名人だったと思われる。知っている人も多いと思うが、小坂は元々は人気歌手である。
小坂一也は35年生まれ。高校時代にバンドを始め、52年にワゴン・マスターズのヴォーカルとして参加。54年にレコードデビューしている。いち早くプレスリーのカバーも取り入れ、NHK紅白歌合戦では「ハートブレイク・ホテル」を歌ったりしている日本で最も早くロックンロールを発表した一人でもある。
個人的には、事実としては知っているのだが、レコードなどは50年代から60年初頭に集中しており、歌手としての活躍はあまり見た記憶はない。この人の顔立ちがロックンロールというイメージではない、と思うのだが…。
映画デビューは57年で、当初はそのまま歌手としての出演であったが、そのうち俳優としての素質を見込まれ、58年に松竹と専属契約したのである。
「オンボロ人生」(58年)で「六さん」という役をやったからなのか、三上真一郎は彼をロクさんと呼ぶ。いや、みんな呼んでいたのかもしれない。既にスターだったわけだが、偉ぶることもなく、三上にも親切だったという。前述の「惜春鳥」で出会った松竹入りの際ひと悶着あった津川雅彦とも気さくに接し、親友として長く続く間柄となっていく。
実はお互いが松竹に来る前に偶然出会っていたという。深夜の信号待ちでお互いの車が偶然横並びとなり、二人とも車を降り「小坂です」「津川です」と挨拶し合ったことがあったという。余談だが、今週CSで放送される「必殺必中仕事屋稼業」に揃って出演しているはずである。津川がいかさま博奕師で、小坂が博奕好きの商人で大負けして自殺する役だ。津川は仕事屋に殺されない代わりに何万両という借金を背負わされる。
さて、前々回に「若手三羽烏・女難旅行」(60年)で、豊三×桑野、三上×瞳、小坂×十朱という役柄上のカップリングを変更したいと、男優陣が直訴して一蹴されたと書いたが、それまで桑野推しだった小坂が相手役・十朱のことをすっかり気に入ってしまったのである。しかし、思いは伝わらない。そこでとんでもない行動に出た。
三上によれば、小坂は睡眠薬をがっぽり飲んで旅館の階段から転げ落ちたのだそうだ。撮影は中断となったが、目的の十朱は陥落したという。拳式をあげたのは74年のことなので、これから約14年は同棲関係にあったということだろうか。別れたのも74年のことらしいので、一見スピード離婚のように見えるが、それ以前に長い事実婚状態の期間があったわけである。離婚したたのは小坂の浮気(松坂慶子に言い寄ったらしい)が原因のようだ。離婚と書いたが、実は入籍はしていなかったとのこと。
小坂は結局、77年に一般の女性と再婚した。80~90年代に入っても、ドラマなどでよく見かけたが、97年食道ガンのため亡くなった。62歳であった。その時、会見を行っていたのが津川雅彦であった。小坂も津川のグランパパプロに所属していたのである。

 

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2017-04-30 13:18:04

松竹俳優録10 山本豊三 その2

テーマ:俳優

前回の続きである。
三上真一郎によれば、山本豊三は干されていた時期に「仕事がない」と嘆きながらも、銀座の喫茶店で新東宝女優である北沢典子と合っているのを目撃したという。もっとも北沢は一人ではなく、母親(と思われる女性)と一緒だったという。「まあ電話するよ、じゃあな」と、かなり親しげだったようだが、豊三が婚約したのは、やはり新東宝出身である大空真弓であった。
三上の記憶では、大空が「台所太平記」(63年)の撮影中に熱海に(三上を伴い)合いにいったというから、北沢と合っているのを目撃してから二年は経っていたと思われる。新東宝は既に潰れ、彼女はフリーになっていた時期。どこでどう出会ったのかは不明だが、二人は婚約者という間柄になっていたらしい。
三上、北沢を含めた共通点といえば、四人ともエランドール新人賞を受賞しているのだが、1年づつずれており(57~60年、北沢→大空→山本→三上の順)、そこで出会ったというわけではなさそうだ。
三上が急な仕事でとんぼ返りして、翌日熱海を訪れると、大空真弓は怒っていたようだったという。「しょうがねえなあ」と能天気な豊三であったが、その数カ月後、豊三は彼女に婚約指輪を突き返されたのであった。御存知のとおり、大空真弓は68年にやはり松竹出身の勝呂誉と結婚するのである(後に離婚)。豊三は新東宝女優、大空は松竹男優が好きなのであろうか。ちなみに、豊三、大空、三上、勝呂は全員40年生まれである。
その翌年くらいと思われるが、三上はかしまし娘の大阪中座の記念公演に参加することになっていたのだが、撮影が延び参加が困難となったため、代役となったのが豊三だったのである。豊三は、かしまし娘の真ん中である正司照枝に大阪の街を案内され、夜な夜な飲み歩いていたらしいが、そのうち一線を越えてしまったという。豊三は年上の姐さんタイプが好きということで、7歳上の照枝と結ばれても不思議ではなかったと三上は述べている。
二人は婚約し、かしまし娘の解散も決まっていたのだが、その年明けに解散が中止になったのである。解散ということでかしまし娘のスケジュールはびっしり組まれ、結婚前の二人はほとんど会えなくなり、寂しさをまぎらわそうと銀座に通っていた豊三は、小さなバーのママと一線を越えてしまったのである。しかも彼女は妊娠してしまい、照枝も父無し子にするわけにはいかないと、豊三との結婚を諦めたのであった。68年に豊三が結婚した女性はその時のバーのママだったと思われる。
豊三がスクリーンを離れたのは、松竹を離れたこともあったが、67年あたりからバセドウ氏病に苦しんでいだということもあったようだ。それでも、たまにドラマには顔を出しており、79年に病気も回復したと「日本映画俳優全集・男優編」には書かれているが、その姿はテレビでも見かけなくなる。夫人とスナックをやっていたというが、現在の状況は不明である。

 

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2017-04-27 00:41:56

松竹俳優録10 山本豊三(+三上真一郎)

テーマ:俳優

木下恵介の監督作品に「惜春鳥」(59年)というのがあり、当時は美少年と言われていた津川雅彦、川津祐介、小坂一也、石濱朗、山本豊三が勢ぞろいしている。
この中で一番人気があったのは誰かと言うと、「映画論叢」に掲載された三上真一郎の連載によれば、山本豊三だったという。それは誰だ?という人もいるかもしれない。おそらく、この中で最初に姿を消してしまったのが山本豊三なのだから。自分もその存在を知ったのは、結構後だった気がする。
山本豊三については、以前ここでも書いたことがあり、重複する事柄も多いと思うが容赦願いたい。
山本豊三は40年生まれ。父は大正期から活躍した俳優の山本礼三郎である。ウィキペディアには、その一人息子のことは一言も載っていなかったりする。
小学生だった51年、東宝の「海賊船」で映画デビュー。三船敏郎が首領の海賊船に乗った子どもの一人だったが、同役で浅茅しのぶもデビューしている。他には新東宝の「下郎の首」(55年)や東映教育映画「二宮尊徳の少年時代」(57年)で、主役の二宮金次郎を演じた後、58年に松竹入りしている。
松竹デビュー作品は「若い広場」(58年)で、豊三は主役グループの一人である。一緒にデビューしたのが片桐真二、清川晶子、そして三上真一郎だったが、三上は4カットのチョイ役だったという。片桐は60年早々には姿を消し、清川は当時阪急ブレーブスのエースだった米田哲也と結婚したという。
その後、豊三は「野を駆ける少女」「明日をつくる少女」(58年)で、桑野みゆきとコンビで主演し、売り出したのである。翌59年には「月見草」「ふるさとの風」で主役に抜擢され、「三羽烏三代記」では佐野周二、佐分利信、上原謙の初代、佐田啓二、高橋貞二、大木実の二代目、そして小坂、三上、豊三が三代目の三羽烏として共演したのである。
その新三羽烏による「若手三羽烏・女難旅行」(60年)では、それぞれの相手役は豊三はいつもの桑野みゆき、小坂には十朱幸代、三上には瞳麗子だったのだが、実は豊三と桑野は相性が悪く、小坂は桑野が好みで、三上は瞳が苦手だったという。そこで、丸く収まるように豊三と瞳、小坂と桑野、三上と十朱という案を持って、所長に掛け合いに行ったところ「十年早い。生意気いうな!」と怒鳴られたという。
この後松竹が総力を挙げて取り組む「予科練物語 紺碧の空遠く」(60年)に、三上や豊三にも出演してもらいたいという話が来たのだが、豊三はこれを拒否。その理由が坊主頭になりたくないから、というものであった。「カツラにしてくれ」と豊三は訴えたが、「それででは監督が納得しない」と松竹側も説得を続ける。松竹としては豊三の言い分に怒り心頭だったようだが、そこは商売第一で人気者だった彼には出てもらわなければならなかったので、交換条件を出したのである。
それは、その坊主頭でも出演できる作品を用意するというものであったようだ。実際にこの翌月に公開された「続次郎物語・若き日の怒り」で、豊三は坊主頭の主役である次郎役を得ているのである。
三上によれば、これで会社の怒りを買った豊三はしばらく干されたのだという。実際にはそんな期間は見当たらないが、60年10月から61年3月の半年間で公開された作品で豊三が顔を出しているのが1本だけのようなので、この時のことを言っているのかもしれない。
長くなってきたので次回に続く。

 

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2017-04-23 12:24:15

松竹俳優録9 石濱 朗(石浜 朗)

テーマ:俳優

木下恵介は美少年好きで、演技力は気にせず、その容姿だけで採用することもあったと言われる。通称「木下学校」出身の美少年スターには、津川雅彦、小坂一也、川津祐介、山本豊三、そして石濱朗などがいた。
個人的には、石濱朗が少年スターだったイメージが全くないのだが(もちろんその辺の作品を見ていないからだが)、世間的には美少年スターのイメージが強すぎて、大人のスターにはなりきれなかったという評価があるようだ。
石濱朗は35年生まれ。暁星高校1年だった51年、木下恵介監督作品「少年期」の主役一郎少年の一般公募が行われた。
石濱は学校では演劇部に籍をおいており、二歳上の姉に薦められて応募したという。オーディションには1500人が参加。一郎少年は中学生の設定なので、16歳になっていた石濱は、その点でもダメかなと思っていたというが、思いがけず選ばれ、主演デビューを飾ることになった。その両親役は笠智衆と田村秋子であった。
映画そのものは不入りで、一週間ももたなかったというが、石濱に関しての評価は上々であり、以後、松竹専属の形になった。新人俳優は俳優座での研修が通例だったが、木下が「ヘンなクセがつくからやめてくれ」と会社に進言し、木下預かりという形になったという。
「少年期」でチーフ助監督だったのが小林正樹で、その縁で小林の監督デビューである「息子の青春」(52年)、続く「まごころ」(53年)にも主演で起用されている。そして、戦後初の映画化となった「伊豆の踊子」(54年)でも、美空ひばりと共に主演に起用された。
当時、木下を通じて「君を使いたがっているが、どうする?」と黒澤明監督から出演の依頼があったという。石濱は高校三年で大学受験を控えており、撮影も長くかかると聞き断ったというが、実はそれは「七人の侍」の若侍・勝四郎役であったという。
結局、当時30歳になっていた木村功が演じることになったが、まだ10代だった石濱がやっていたら、全然雰囲気の違った作品になっていた気がする。石濱も「もし引き受けていたら、自分の俳優人生は全く違うものになっていたかもしれない」と後に語っている。
立教大学に合格し、俳優と二足のわらじをはくことになった石濱は、その後も多くの木下作品に出演しているが、ほとんどが準主演か助演に回ることになっていた。
50年代後半の映画界では不良性感度の高い若者がもてはやされるようになり、石濱のような美青年タイプは出番を失っていったのである。映画は63年頃から遠ざかり、舞台やテレビが中心となっていく。
一時期芸能界を離れたこともあるが(72~74年ころ)、75年にカムバックしており、以降は地道に活動を続けている。

2009年より、日本映画俳優協会の理事長を務めている。

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