新東宝俳優録31 松原緑郎(松原光二、松原浩二) | お宝映画・番組私的見聞録

新東宝俳優録31 松原緑郎(松原光二、松原浩二)

新東宝最後のスターといえそうなのが、女優なら三条魔子、男優なら松原緑郎ということになろうか。
松原緑郎に関しては詳しいプロフィールはわからず、37年生まれで明治学院大学を中退し、59年に新東宝入社ということくらいしか判明していない。入社経緯も不明だが、おそらくはスカウトであろう。
デビュー作と思われる「0線の女狼群」(60年)こそ端役であったが、その後「男が血を見た時」「太陽と血と砂」「激闘地平線」(いずれも60年)と立て続けに主役を得ている。いずれも共演は三ツ矢歌子である。
新東宝が三ツ矢とのコンビで売り出そうとしていたかどうかは不明だが、年齢はほぼ同じ(三ツ矢が1つ上)で悪い組み合わせではない。しかし、大蔵が退陣した翌月に三ツ矢は小野田嘉幹監督と結婚し、新東宝を一足早く離れている。
61年に入っても松原は「桃色の超特急」「私は嘘を申しません」などで主演または準主演を得ていたが、新東宝は倒産してしまう。
松原が星輝美と共に主演した「狂熱の果て」は、6本のみで消滅した大宝から配給されたりしているし、やはり星輝美とコンビの「俺が裁くんだ」は、62年になって日活で公開されたりしている。
新東宝倒産直後に放送されたドラマ「恐怖のミイラ」(61年)では、多くの新東宝出身俳優が起用されているが、主演は松原で、ヒロインが三条魔子。松原の姉が若杉嘉津子、他にも舟橋元や川部修詩、泉田洋志などが出演し、三原葉子もゲストで出演している。
倒産後の松原はハンサムタワーズのメンバー共に松竹に移籍している。三上真一郎によれば、その初日は松竹大船に松原とハンサムタワーズの三人(寺島を除く)が一緒に現れたという。しかし、重用されたのは吉田輝雄と寺島達夫だけで、菅原文太や松原は脇役に終始することになる。
当初は松原緑郎のまま活動していたが、63年途中に松原浩二と改名している。移籍していきなり松原光二になったように書かれている資料が多いが、実はワンクッションあったのである。「日本映画人改名・別称事典」にも載っているし、実際に「松原浩二」のクレジットを見たこともある。少なくとも64年まではこの名前である。
正確な時期は不明だが、松竹に見切りをつけ、65年からはテレビを中心の活動とし、この際に芸名を松原光二に改めたようだ。ちなみに彼の本名は松原光一という。ここまで来たら本名でいいじゃんとも思うが、やはり佐田啓二、鶴田浩二、高橋貞二、菅原謙二(後に謙次)など「二」のついた俳優が売れていたからだろうか。同じパターンで、今井健二が当初は本名が俊一のところ俊二を名乗っていたし、俳優ではないが、円谷英二が本名が英一のところを尊敬する叔父が一郎だったため、遠慮して英二を名乗ったという例もある。
そんな中、66年には「特別機動捜査隊」に立石班6番目の男・松山刑事役でレギュラーに抜擢。前回も書いたが新東宝出身俳優が多くレギュラーまたはゲスト出演しているドラマである。
レギュラーとして安定していたが、69年に「プロフェッショナル」というアクションドラマの主演に抜擢されたことから、「特捜隊」を降板したのだが、蓋を開けると「プロフェッショナル」は迷走し、松原や地井武男、天田俊明らが18話で降板となり、タイトルを「ヤングアクション プロフェッショナル」に、キャストを森次浩司、佐藤英夫らに変え、26話まで放送された。
71年に一時的に「特捜隊」に復帰しているが、かつてのレギュラー陣がほぼ降板した直後で、里見浩太朗の高倉主任初登場の回を最後に姿を消している。
その後は、「プレイガール」や「遠山の金さん」など東映系にドラマにゲスト出演していたが、70年代後半には見かけることもなくなってしまう。
新東宝がもう少し長く続いていれば、もっと活躍できた俳優のような気がするのである。