小森白と森美沙(梓英子) | お宝映画・番組私的見聞録

小森白と森美沙(梓英子)

ピンク映画の世界から一般映画へ転向して成功を収めた一人が梓英子である。
以前ここでも書いたと思うが、森美沙(美佐)の名で「青い乳房の埋葬」(64年)に出演したのがデビューである。当時、まだ17歳であった。
その後、「渇いた唇」「日本拷問刑罰史」「入れ墨お蝶」(いずれも64年)に出演して森美沙の名前は姿を消すが、その全てを監督しているのが新東宝出身の小森白(大滝翠名義あり)である。ちなみに白と書いて「きよし」と読む。
新東宝が潰れた後、大蔵貢に頼まれて70ミリの大作「太平洋戦争とひめゆり部隊」(62年)を撮ったのが小森である。興行的には苦戦し、大蔵はこの後二度と一般大作を作ることはなかった。
小森は小森プロを作り、ピンク映画に進出した。森美沙こと梓英子がピンク映画に出演することになったのは、小森が彼女の父親と友達で「君の娘さんを貸してくれ」と頼んだのがきっかけだったという。
本当だとすれば、頼む方も貸す方も出る方も、どうかと思うのだが、小森の話では彼女はとでも度胸が良かったという。特に「日本拷問刑罰史」は大ヒットしている。
森美沙は65年になって、松竹の青春映画「若いしぶき」に出演したのをきっかけに梓英子と名を改め、東映の任侠物や日活作品にも出演、そして67年からは大映の専属となっている。
テレビドラマにも並行して出演するようになり、時代劇からアクションもの、青春ドラマまで幅広く顔をだしている。一番有名なのは、おそらく「どてらい奴」での西郷輝彦演じる演じる主人公・猛造の妻・茂子役ではないだろうか。
大映時代、彼女がピンク映画出身ということは秘密になっていたそうである。今だったら簡単にバレてしまうだろうが、当時はホームビデオもなく、映画は映画館でしか見れない時代なので名前が違えば、一般人にはわからなかったと思われる。
小森はその後、東京興映というプロダクションを作るが、そこから出てきたのが山本晋也である。