クライシュ族の鷹3 | TERUのブログ

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つれづれに

ラフマーン物語の続きです。



 ハディージャは、スークの石だたみを走っていた。この地に流れ着いて、それほど日が経っているわけではないが、だいたいの道は、頭に入っていた。いつでも厄介ごとから逃げ出せるように。それが女がひとりで生きていくための知恵だ。
 いない?
 どうして?
 さっき分かれたばかりなのに……
 どこ、どこにいるの?
 ハディージャは、いつの間にか、懸命になってラフマーンを探していた。
 ああ、怪我をしているのに。
 きっとアッバースの兵士と戦ったんだわ。早く手当をしなくっちゃ。
 ハディージャは、ラフマーンを思いやって、気が気ではなかった。半時間も探しただろうか。もう見つからないかも知れない。そう思って諦めかけたとき。
 いた!
 ハディージャの目に、路地裏に入っていく男の姿が映った。ハディージャは、あわてて走った。
 この路地だわ。間違いない!
 ハディージャが路地に入り込んでしばらく行くと、男はいた。石の上に座り込み、うつむき加減で右腕を押さえていた。
 傷が痛いのだわ!
 ハディージャは、はやる心を抑えて男の前に立った。
「あ、あの!」
 と、息の弾んだ声をかけたが、そのあとが出てこなかった。彼を見て、もはやラフマーン以外の何者でもないと直感したのだ。ラフマーンが、ウマイヤ家の公子が、本物の王子が、いま自分の目の前にいる。そう思っただけで、足が震えてきた。
「どうした。銀貨一枚では足りなかったか」
 男が顔を上げた。
「ち、違う! あ、あの、これ、お返しします!」
 ハディージャは、さっきもらった銀貨を男に突き返した。
「どうして? それはきみにあげたものだ。遠慮はいらない」
「で、でも、でも……」
 ハディージャは、そこまで言って、一回深呼吸をした。そして、腰を落として、ラフマーンと同じ目線になってから、だれかに聞かれないよう声を落として言った。
「ラフマーンさまから、お金はいただけません」
「おいおい。ぼくは、そんなご大層な人物じゃない」
「でも、あの……怪我の手当をしなければ」
「大丈夫だ」
「大丈夫なものですか!」
 ハディージャは、思わず声を荒らげてしまい、あわてて、また声を落とした。
「お願いです。傷を見せてください」
「きみは医者か?」
「いいえ。でも、ちょっとした傷の手当ぐらいできます。そうだわ。あたしのうちに来てください。薬草もあります」
「断る」
「信じてください。あたしアッバースに密告なんかしません」
「そうだとしたら、よけいに断る」
「なぜ?」
「巻き込みたくないんだ。いや……ぼくはラフマーンではないが」
「だったらいいじゃないですか。あたしはただ、怪我をしている人をほっておけなかった。それだけ。お願いだから、言うことを聞いてください」
「どうして、そんなにムキになるんだ」
「アッバースが嫌いだから」
 ハディージャは、真剣な顔で答えた。
「母はアッバースに殺されました」
「ウマイヤと関係があったのか?」
「あたしがまだ子供のころ、父はメディナで傭兵をやってました。ヒシャームさまの治世のときです。ヒシャームさまが亡くなられたあとのゴタゴダで、ワリードさまの一派と戦って命を落としました」
 ラフマーンの祖父、ヒシャームのあとのカリフを決めるとき、ウマイヤ家の中で内紛があったのだ。
「母には占い師の才能があったので、父が死んだあとも食べるのには困りませんでした。でも、その母も、ウマイヤのために働いたと言う理由で……それからあたしは、母から教わった占いを糧に、アッバースのいない街を転々として暮らしています」
「そうか。苦労をしたな」
 男は……いや、ラフマーンは、優しげな瞳でハディージャに声をかけた。
「だが、そんな経験をしているなら、ぼくに関わるのがどれほど危険かわかるだろう。きみはなにも見なかった。それが一番いい。ぼくのことは忘れてくれ」
「ええ。正直言って怖い」
 ハディージャは、ラフマーンを見つめた。少し灰色がかった青い瞳。吸い込まれそうに美しい色だった。さっき一瞬感じた、燃えるような強さが、その美しい瞳に宿っていた。
「でも、忘れるのも無理。絶対に無理です。あなたに死んでほしくない。もう立っているのも辛いのでしょう? 夜半になれば、凍えるほど寒くなります。こんなところで死ぬつもりですか?」
「まったく、バドルといい、どうしてこの世にはお節介が多いのか」
「バドルって?」
「なんでもない」
 彼女の言う通りだ。ここでうずくまっていても、夜の冷気にやられる。気は進まないが、いまは人の情けにすがるしかないようだった。
 ラフマーンは立ち上がった。そのとき、右腕に痛みが走って顔をゆがめた。
 ハディージャは、思わず息をのんだ。布で隠しているが、よく見れば右腕にどす黒い血がにじんでいる。
「だ、大丈夫ですか、ラフマーンさま」
「ラフマーンではないと言ったろ」
「では、なんとお呼びすれば?」
「そうだな……ハーシムとでも呼んでくれ」
「いやだ。それアッバースの先祖の名だわ。いえ、名前です」
「だから、いいじゃないか」
「そうね。いえ、そうですね」
「普通に話してくれ。ぼくに気をつかってくれるつもりがあるのなら」
「え、ええ」
 ハディージャは、スークの人込みを見てからうなずいた。下手に敬語など使えば、怪しまれてしまう。
「それがいいみたい。さあ、ハーシム。こっちよ」
「すまない。世話になる」
「いいのよ」
 ハディージャは、自分と並んで歩くラフマーンを見て驚いた。人込みに出たとたん、痛みに耐えていた瞳から苦痛の色が消え、穏やかなまなざしに変わったのだ。さっき、少し感じた人を吸い込むような強さもない。かなり痛むはずの右腕をかばっている様子さえなかった。
 すごい人だ……ハディージャは、素直に感心した。こんな人だから、アッバースから逃れることができたのだ。
「そういえば」
 ラフマーンがふいに言った。
「名を聞いていなかったな」
「あたしは、ハディージャ」
「アラブ風だな」
「ええ。生まれはメディナですもの。ベルベル族として育ったわけじゃないわ」
「そうか。そうだったな」
「ウマイヤの時代はよかったわ。アッバースの世になって、住みにくいったらない」
「ああ。ぼくもだ」
「あははは! そうでしょうね!」
 ハディージャは、思わず声を上げて笑ってしまった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る。笑わせるために言ったんだよ」
「そうなの?」
「そうさ。冗談は嫌いかい?」
「いいえ。大好きよ」
「それはよかった」
 ラフマーンはほほ笑んだ。
「あ、ここよ」
 ハディージャは、スークの外れにある、パン屋の前で止まった。
「この家の裏の納屋を借りてるの。狭いけど、寒さはしのげるわ」
「よく借りられたな」
「このパン屋、三日前に引っ越していったのよ。いまは無人」
「つまり、勝手に借りてるわけか」
「まあね」
 ハディージャは、そう言って笑うと、隣の家との間をぬって納屋に行き、ドアを開けた。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう」
 ラフマーンは、ハディージャの部屋に入った。たしかに狭かった。荷物はほとんどなく、街を転々としているという言葉に真実味が感じられた。
「さあ、急がなくっちゃ」
 ハディージャは、ランプに火をつけると、小さな戸棚から、薬草の入ったツボをいくつか出した。
「いろいろ揃えているんだな」
 ラフマーンは、床に腰を下ろした。
「そうよ――いえ、そうです。病気になったって、だれも助けてくれませんから」
「ハディージャ。どうか普通に話してくれ。二人きりとはいえ、壁に耳ありだ」
「え、ええ。そうね。わかったわ」
 ハディージャは、薬ツボを持って振り返った。
「さあ、服を脱いで」
「ああ」
 ラフマーンは、まず顔を覆っていたベールをとり、頭に巻いていたターバンも解いた。
 ハディージャは、ラフマーンの顔を見て、目を丸くした。
「どうした?」
「髪の毛……本当にきれいな金髪なのね」
「ああ。ぼくの母はベルベル族だ」
「ホント?」
「本当だとも。この髪の色が証拠だ」
「へえ……そうなんだ」
 ハディージャは、自分がベルベル族であることに誇りを持っていなかった。アラブで生まれたのに、なぜアラブ族ではないのかと嘆いたことさえある。だが、ラフマーンに自分と同じ血が流れているのを知って、妙にうれしかった。
「それにしても、ハンサムだって噂も本当だったのね。噂なんて、たいていウソだと思ってたけど」
「母に似たんだ。父がベルベル族の母を愛した理由が、今日やっとわかったよ」
「どういうこと?」
「ベルベル族には美人が多いらしい」
「あの……それって、あたしに対するお世辞?」
「そうかもね」
 ラフマーンは笑いながら、上着を脱いだ。さすがに痛みに耐えきれず、小さく、うっとうめき声をあげた。
「ひどいわね」
 ハディージャは、ラフマーンの腕の傷を見て顔をしかめた。
「血は止まってるけど、縫わなきゃダメみたい」
「できるか?」
「うん」
 ハディージャは、針と糸を出した。そして、傷口を消毒しようと、酒の入った壺を持ち上げた。
「待った。一口飲ませてくれ」
「ええ、どうぞ。気付けの一杯」
「ありがとう」
 ラフマーンは酒の壺を受け取って、一口飲んだ。
「つ、強い酒だな」
「アラックよ。こっちの方じゃ度が強いみたい」
 アラビアだけでなく、ベルベル族のいる北アフリカやエジプトなどでも作られていた、伝統的な蒸留酒だ。
「アラックか……久しぶりだ。これは、なかなかうまい」
「全部飲まないでよ」
「ああ」
 ラフマーンはハディージャに壺を返した。彼女が傷口に酒を掛けると、しみるような痛みが襲った。
「つっ……」
「がまんしてね」
 ハディージャは、酒で洗った傷口を新しい布で拭くと、手が震え出さないように気をつけながら、傷を縫った。
「アッバースと戦ったのね」
「致し方なくね」
 ラフマーンは痛みに耐えながら答えた。
「いったい何人と?」
「三十人はいたと思う」
「そんなに? すごいわね。三十人も倒しちゃうなんて」
「まさか。そんなに相手にできるわけがない。突破するのがやっとだった」
「でも、何人かは倒したんでしょ?」
「五人目からは数えてない」
「五人でもたいしたものよ。ざまあみろよね」
 ハディージャは、傷を縫い終わった。
「できた。これでいいわ」
 ラフマーンはホッと息を吐いた。その額からは、さすがに脂汗がにじんでいた。
 ハディージャは、手際よく傷口に薬草を当てて布で巻いた。
「きみは医者になる才能があるな」
「冗談。占い師になるのがやっとよ。あ、服の代わりにこれ使って」
 ハディージャは、洗い立ての白いシーツを出した。
「汚れてた服は、あとで洗っておくわ」
「なにもかもすまない」
 ラフマーンは、シーツを身体に巻いた。
「すまないついでと言ってはなんだが、酒をもう少しもらえないか」
「ええ」
 ハディージャは、ラフマーンの傷を消毒した酒を、こんどは安物の陶器の器に注いだ。
「はい。あんまり飲みすぎないでね。傷に響くから――ああ、いけない。食べるものがなんにもないわ。失敗した。買ってくればよかった。ちょっと待ってて、いまなにか買ってくるよ。たしかメゼを売ってるお店が、まだやってた」
 ハディージャは、あわてて戸口に向かった。メゼとは、酒とともに食べる食事のことだ。現代の西洋風に言えば、オードブルに近い。
「ハディージャ」
 ラフマーンが呼び止めた。
「なに?」
「ぼくのことを気にしてるなら、心配は無用だ」
「でも、お酒飲むのに、なにかあったほうがいいでしょ?」
「いらないよ。座ってくれ」
「でも……」
「本当に気にしなくていいから」
「そう……」
 ハディージャは、ラフマーンから、少し離れて座った。
 まいったな。どうしよう。間が持たないよ……
 ハディージャは、急に心臓の鼓動が速くなるのを感じて、視線をさまよわせた。
「あ、あたしも少し飲もうかな」
「注ごうか?」
 ラフマーンが酒の入った壺に手を伸ばした。
「え、いいよ! 自分で注ぐ」
 ハディージャは、あわてて壺を取ると、自分で器に注いだ。
「なあ……ハディージャ」
「な、なに?」
「きみは占い師だと言ったね」
「う、うん」
「ぼくの未来も見てはくれないか?」
「あなたの? じょ、冗談でしょ!」
「どうして?」
「だって……ダメだよ。荷が重すぎる。あたしには見れない」
「そうか。残念だな。ウマイヤ朝が再興されるのがいつか知りたかったんだが」
 ラフマーンは、そういって笑った。
「それ、本気なの?」
 ハディージャは、驚いた顔で聞き返した。
「もちろんだ。むかし、ウマイヤ朝が滅びると予言した占い師がいた。それは不幸にして当たったわけだが、その占い師は、こうも予言した。ウマイヤ家の生き残りが、必ずやウマイヤ朝を再興するだろうとね。ぼくは、自分がその生き残りだと信じている」
「そう……」
 ハディージャは、そういわれて、自分自身、興味が抑えきれなくなるのを感じた。この人なら、本当にできるかもしれない。そう思ったのだ。
「ちょっとだけ見てみようか」
「お、うれしいね。よろしくお願いします、ハディージャ先生」
「やめてよ」
 ハディージャは、苦笑しながら、腰に結んだ革袋から、小さな水晶球を出した。
「やはり水晶を使うのか」
「まあね。これは扉みたいなものさ。水晶自体に力があるわけじゃない」
「ふうん。そう言うものかい」
「ええ」
 ハディージャは、水晶を両手で包み込むように持つと、その透明な球をのぞき込んだ。
「なんだろう……暗いよ。なにも見えない」
「死ぬのか?」
「違う。いいえ、人はいつか死ぬ。あなただって例外じゃない。でも、それはいますぐじゃない。それだけはわかる。それ以上は……あたしには見えない。なにか、霧のようなものに覆われてるだけ。こんなことははじめてだよ」
 ハディージャは、ふっと息をついた。
「ごめん。あたしじゃ力不足だ」
「いいんだ。今夜死なないとわかっただけでも」
「安心しないで。占いで見た未来は、たくさんある枝道の一つにすぎない。自分の行いで、どうとでも変わっちゃうんだ」
「そういうものなのか」
「うん。人生は自分で切り開くものだって。母からの受け売りだけど」
「自分でか」
 ラフマーンは、ごろんと床に横になった。
「いまはまだ、夢に届かない。人生を切り開く仕事は明日から始めるとしよう。少し疲れたよ」
「だったら、布団で寝て。布団と呼べるほどのものじゃないけど」
「家主の床を汚すわけにはいかない」
「バカ言わないでよ。怪我人なんだから」
「気にするな。夜半になったら起こしてくれ」
「夜半?」
「そうだ。朝日が昇らぬうちに失礼する」
「ちょ、ちょっと。それはいいけど、ホントに布団で寝てってば」
 だが、ラフマーンはすでに寝息をたて始めていた。
「もう~。しょうがないなあ」
 ハディージャは、自分の寝床から毛布をとってラフマーンにかけた。
 あら……
 ハディージャは、ラフマーンの寝顔を見て、クスッと笑った。
「やっぱり王子さまね。寝顔がかわいい」
 もしも、ウマイヤ朝が続いていれば、ラフマーンはなに不自由ない生活を送っていけただろう。この寝顔のように、安らかな人生を約束されていたはずだ。
 ハディージャはそう思って彼の顔をのぞき込んだ。胸が熱くなる。
 本物の王子さまなのに……いまは逃亡者。国中がこの人を狙っている。まわりには敵しかいない。
「ラフマーンさま……」
 ハディージャは、小声でラフマーンの名を呼んだ。
「あなたは、どこからでも見えるのでしょうね。輝きが強すぎるから。せめて今夜だけは安らかにお休みになって」
 ハディージャは、ラフマーンを見つめているうちに、トクントクンと、胸が高鳴るのを感じた。そして吸いよせられるように、ラフマーンのほほに、軽く唇を当てた。
 きゃーっ! 王子さまにキスしちゃった!
 ハディージャは、顔を真っ赤にして、ラフマーンの汚れた服を持って立ち上がった。
「うふふ。役得役得。さあ、洗濯しておいてあげよう。でも、落ちるかなあ。こんなに血がついてて」
 ハディージャは、ラフマーンの服を持って外に出た。
 そのとき。突然、腕をつかまれた。
「きゃっ!」
 大男だった。
「ナルジャ。この女か」
 ハディージャの腕をつかんだ大男が言った。
「そう! こいつだよ!」
 答えた女は、さっきハディージャが、オバサンと呼んだ女だった。
「痛い! 離してよ!」
 ハディージャは、大男から逃れようともがいた。
 すると、大男はハディージャの顔をバチンと殴った。
「静かにしろ、女。もっと痛い目をみてえか?」
 ハディージャは、屈辱に唇をかみながらうつむいた。
「よしよし。わかったようだな。で、女。おまえ、オレのシャバで商売をしてたんだって?」
「してないよ」
「ウソおっしゃい!」
 女が叫んだ。
「ウソじゃないわ。商売をしようとしたら、あんたに追い出されたんだ。一ディーナールだって稼いじゃいない」
「だが稼ごうとはしたわけだ」
 と、大男。
「となると、シャバ代をもらわねえといけねえなあ」
「稼いでないんだから出しようがない。稼ぎの二割が相場でしょうに」
「うるせえよ。オレに無断で商売をしようとした罰金だ」
「わかったわよ。払えばいいんでしょ、払えば」
「よしよし。十五ディーナールで手を打とう」
「十五ディーナール! バカ言ってんじゃないよ。一月かかったって、そんなに稼げるもんか!」
「だったら、べつの方法で払ってもらってもいいんだぜ」
「べつの方法? な、なによそれ」
「おいおい。わかってるだろうに。ベルベル族の女は、商品価値が高いからな。アッバースの連中に売ればいい値がつく」
「じょ、冗談じゃない! だれがアッバースの奴隷なんかになるもんですか!」
「ったく、困った女だな。金はねえ、奴隷にはなりたくねえ。そんな道理が通じると思ってんのかよ」
「いやだ、離して! アッバースに売られるぐらいなら、死んだ方がマシよ!」
「うるせえって言ってんだよ!」
 大男は、本気でハディージャを殴った。
「うっ……」
「おっといけねえ。あんまり殴ると商品価値が下がっちまうな。さあ、来るんだ」
 大男は、ニヤリと笑って、ハディージャの腕を引っ張った。
「やめて、離して!」
「静かにしろと言ってるだろ!」
 そのとき。
「静かにするのはおまえのほうだ」
 戸口にラフマーンが立っていた。
 ハディージャは、戸口を見て、ラフマーンの名を叫びそうになった。その言葉を懸命に飲み込む。ラフマーンは、頭からすっぽりシーツを被り、顔はベールで隠していた。
「な、なんだてめえ」
 大男は、ラフマーンをにらんだ。
「この女の男か?」
 ラフマーンは、大男に答えず、手に持っていた金貨を一枚、親指で大男の方に弾き飛ばした。
「おっと!」
 大男は、金色に光るそれを空中でキャッチした。
「うおっ。金貨じゃねえか!」
「十五ディーナールに足りるだろう。女を離せ」
 ラフマーンは、低いくぐもった声で言った。
「待てよ」
 大男は、不敵に笑った。この女、どうやらどこかの金持ちをたらし込んだらしい。こいつはむしり取ってやらにゃあ。大男の顔にはそう書いてあった。
「おい、あんた」
 と大男。
「オレの出張料金が足りねえなぁ。まあ、今日のところは、出血大サービスで、金貨十枚で話をつけようじゃないか」
「典型的だな」
 ラフマーンは苦笑した。
「まったく、小悪党の典型だよ。でかい身体に小さな脳みそでは、悪事を働くのもこの程度が精一杯と言うところか」
「その一言で、金貨二十枚に跳ね上がっ――」
 大男は、そこまで言って言葉を切った。いつの間にか、自分の喉元に剣先があった。ラフマーンが剣を抜いたのだ。その動きがあまりにも早く、無駄のない動きだったので、大男はまったく気がつかなかったのだ。
「けだものめ」
 ラフマーンは、剣先をチクリと大男の喉元に当てて言った。
「このまま剣を突き刺せば、アッラーもさぞお喜びになるだろう。地獄の業火に焼かれるがいい」
「ま、ま、待てよ。おい、冗談だって、十五ディーナールでいい。ほら、女を返す」
 大男は、ハディージャを離した。
 ハディージャは、あわててラフマーンの背中に隠れた。
「行け」
 とラフマーン。
「金貨はくれてやる」
「わかった。わかったよ」
 大男は、じりじりとあとずさって剣先から逃れると、あたふたと大通りに出ていった。大男を連れてきた女は、ちらりとラフマーンを見てから、大男を追っていった。
 ハディージャは、ホッと息をついた。
「ごめん。あたしのせいで」
「謝るのはぼくの方だ」
 ラフマーンは、厳しい声で言うと、納屋の中に戻った。
「ホントにごめんよ。怒ってる?」
「ああ。怒っている。自分自身の思慮のなさに」
「え?」
 ハディージャは、ラフマーンの言っている意味がわからなかった。
 ラフマーンは、頭にターバンを巻き始めた。
「ハディージャ。ここを出るんだ。いますぐ」
「ど、どうして?」
「あの女。ぼくのことに気づいた。すぐアッバースに密告するだろう。小一時間もしないで、ここは取り囲まれる」
「う、うそ……」
「間違いない」
 ラフマーンがそういうのだから間違いない。とハディージャは思った。でなければ、この人はとっくの昔にアッバースに捕らわれていただろうと。ハディージャは、本当の意味でことの重大さに気がついた。
「ああ……なんてこと……あたし、とんでもないことしちゃった」
「違う。悪いのはぼくだ。きみはラフマーンをかくまった罪に問われる。重罪だ」
「あ、あたし、あたし……」
 そうだ。あたしも危ないんだ……
 ハディージャは、ごくりとつばを飲んだ。
「過去は変えられない。いまさら悔やんでも無意味だ。お互い、生き延びることだけ考えよう」
 ラフマーンは革袋に入ってる金貨を確認した。五十ディーナール入っていた。それを革袋ごとハディージャに渡した。
「ほら。持っていくといい。当座はこれで暮らせるだろう」
 ハディージャは、涙が出そうになった。
「どうして? あたしが悪いのに……なんであなたは、そんなに優しいのよ」
「人生は自分で切り開くものなのだろう?」
 ラフマーンは、ハディージャにほほ笑んだ。
「で、でも、あなただってお金は必要でしょう」
「金なんてどうとでもなる。ハディージャ。ぼくの服を」
「汚れているよ」
「そんなことに、かまってられない」
「う、うん」
 ハディージャは、抱きしめていたラフマーンの服を返した。
「さあ、早く。きみも逃げる準備をするんだ。街を出るまではぼくが護衛しよう」
「うん」
 ハディージャは、あわてて身の回りのものを袋に詰め込んだ。


つづく……