共感というワナ
自分の精一杯を、
常に試される瞬間を持っている人は、
はなから共感なんて求めてない。
つい半世紀前には、
むしろ欺瞞と揶揄されてきたフィールドだろう。
「ね、ね、そうでしょ?」
よりも、もっともっと、
止むに止まれぬ気持ちが先にあって、
途中大いに悩みながら、
その気持ちに従うための努力と選択をし続ける。
そんな熱意と衝動が
歴史をつくってきたのではないか?
それは、今で言えば“バグ”みたいなもの。
…もっと未来には、何ていうんだろう。
全能の存在にはかすり傷の誤差だろうけど、
そのバグが重なれば、
やはり大きな力というか、
うねりみたいなものはできるだろう。
それは、共感に近いものを生むだろうけど、
あくまでも膨大なあがきの末にあるもので、
予定調和や共感を目指した結果ではない。
エネルギーの強い、意思のあるものが、
なんとかかんとか、爪痕を残す。
変化するとか、違うとか、引っかかるとか、
どんなに小さなつまづきにも、
格別の何かが潜んでいるに違いない。
それにとことん向き合った者だけが
自らの手で次の道を拓くことができるんだ。
…そう考えると、
「共感」という言葉は、
「諦め」と似たような意味にもなる。
諦めからは、衝動や熱意は生まれない。
そんな低エネルギーでは、
未来の人々に何も残せない。
あがけ、あがけ、自分。