右の頬を打たれたら、左の頬を思いっきりブン殴れ! | フリーランス宣伝使への道

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昨日はクリスマスと言う事で慈悲深い聖書の

言葉を載せましたが、

その翌日にこんなタイトルで

「はぁ?」

と思われた方もいるかもしれません(笑)


昨日の聖書の言葉には載せていませんでしたが、

聖書の有名な言葉に


「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」


というのがあります。


しかし、こういった言葉と言うのは人によって解釈は

様々で、

「ほんとにその通りだ、私も自分に対して攻撃する人

には慈悲の心で耐え忍ぼう」


と思う人もいれば


「なーに言ってやがんでぃ!一人前の男が殴られて

黙って見過ごされるけぃ!倍になって返してやらぁ、

てやんでぃ、べらぼーちくしょうめぃ!」


と思う人もいるでしょうw


言葉通りに解釈すると前者が正しいように思いますが、

どっちもあっていると思います。


「いや、こっちの方が正しいんだ。」


と頑なに思っている人は心に引っ掛かりがある証拠なんで、

注意したほうがいいですね。


大分昔になるんですが、


この言葉の解釈に悩んだ事があって、

そのきっかけとなったあるニュースがありました。


そのニュースというのが、

不良グループ数人が神父をリンチで殺したという

事件だったのですが、元々神父さんとは仲よく

していたらしく、何かのきっかけで神父さんに手を

出すようになり、まったく抵抗しないので、エスカレート

していって結局最後には死に至らしめてしまった

という事件だったのですが、


このニュースを聞いた時に、この神父さんは


「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」


という言葉を実践したのではないか?

と思って

けど

死んでしまったら意味がないんじゃないか。


少年たちも犯罪者になってしまった。


とすごく考えたのを覚えています。



この事件を思い出して、

今思うのは結局この神父さんは

弱い人で、最初に手を出された時点で付き合いを

やめればよかったのです。


しかし、聖書のこういった言葉に〝囚われて″

無抵抗を続けた結果こうなったと思うのです。


ようするに相手を見て法を説け

こうしなければいけないという事に囚われる事無く

その場その場の瞬間を捉えて迷うことなく

行動に移せばいいのです。


弱い自分であれば言葉に囚われて

やせ我慢するのではなく、少年たちを警察に

突き出して、改心をさせる。

それが結局少年たちの為になるかもしれないのです。


少年たちからは恨みを買うかもしれませんし、

信者さんからは

「穏便に済ませればいいのに

ひどい事を」


と思われるかもしれませんが、


そういった非難を甘んじて受け入れる事が

「左の頬を差し出す」という事

の真意であって、そこに信念からの行動だという

思いがあり、

迷いがなければ、そういった

非難される(左の頬を打たれる)

事などはどうでもよく、飄々(ひょうひょう)としていられる

のです。


逆に元プロボクサーだったり、空手家だったりで

強いのあれば、本当に左の頬を差し出せばいいのです。


そこには恐れや不安がなく、微笑さえ浮かべて慈悲深い

目で見つめられたら少年たちもその瞬間に何かを

悟るかもしれないのです。


それを弱いのを隠して、形だけ真似をしても

そこには必ず恐怖が起こるので、それが少年たちに

伝わって、結局ナメられてエスカレート

していくのです。


もちろん、さっきの例で、強いのであれば、

微笑を浮かべるのではなく、

阿修羅のようにブチ切れて少年たちをコテンパンに

打ちのめすのもありなわけです。


神父なのにすげー強いし、しかも手をだしやがった!


とこれも何か悟るかもしれません。


これも色々非難を受けて、法的にも罰せられる

かもしれませんが、

左の頬を差し出したんだ

という信念を持って飄々としていればいいのです。


まあ、要するに言葉や概念に囚われていると、

いざという時に直感ではこうだと思っても頭で

考えて理性が入ってしまって、


こうであるべき

という常識の範疇の反応をしてしまうのです。



だから常に自分をニュートラルな状態にしておくのが

とても大事なことであって、


そういった点では禅の逸話、公案などはものすごく

囚われがなく、

飄々颯々(ひょうひょうさつさつ)

としていて、すごく好きです。


中でも僕の好きな話に倶胝竪指

という話があります。


『中国の禅僧、倶胝は誰に何と問われて

も常に指一本立てるという、


何とも不思議な説法で生涯を通された方である。


ある時この倶胝和尚の弟子の一人の小僧が街

へ買い物に行った。


その時、


「お前のところの和尚は人が何を言っても返事は

決まっているそうだな。どんな返事をするのじゃ。」

と、

冷やかされた。

そこでこの小僧、何時も見慣れたように指をにょきと立てた。


寺へ帰り和尚にこの事を報告し、

「指を一本立ててやりましたわい。」


と指を立てると、倶胝和尚は刃をもってその指をちょん切ってしまった。


「いたたたたっ!」と出て行こうとした小僧を、

倶胝は、「おい!」と呼び、

振り向いた途端指を一本立てた。


そこでこの小僧は忽然と悟った。』



まあ、これも人それぞれ解釈が異なると思うのですが、


現代だと「虐待だ!」「人権侵害だ!」

と騒がれるかもしれませんが、


この小僧は悟りを開く為にこの和尚の弟子となって

修行をしている訳であって、


当然の事ながらこの和尚は弟子たちが悟る為に

あらゆる機会を捉えようとしている訳です。


そして、

この弟子にとっての悟る瞬間がその時であった訳で、

和尚はその瞬間を見事に捉えて、見逃す事無く

常識やモラルや法律に囚われる事無く

躊躇なく小僧の指を切り落としたのです。


そして、最後に

「悟ったな、おめでとう」

という意味を込めて指を立てたのです。


これも形だけ真似てみたところで、その真意を分かって

いなければ、小僧は指を失っただけ、

和尚は罪を犯しただけ、

という事になってしまうわけですが、


しかし、そこに真理さへ貫かれていれば、

極端な話指どころか腕を切り落としても、

いいわけです。


禅宗の二祖慧可が開祖の達磨に弟子入りを頼む

時になかなか受け入れられずに自分の左腕を

切り落として覚悟を示し、やっと弟子入りを認められた

という話があるように、


真理を得る、悟りを得る為であれば、腕の一本や二本、

それどころか命でさえも惜しくない訳で、


そこには死をも超越した、不退転の覚悟があって、

そこから出る行動にはカルマの発生のしようがないのです。


同じように昔の武士も子供の頃から剣の修行と同時に

切腹の練習もしていて、自分に恥じる行動を

する事イコール死を意味するという事を

常に覚悟していたのです。


だからこそ腹の据わった、揺るぎない行動が出来た

わけで、

逆に生に執着した、生きる事にのみ焦点

を合わせた行動からは迷いしか生まれてこず、

そこからカルマが発生するのです。


世間で声高らかに叫んでいる、平和主義者や

どこぞの国の環境団体などは、

そのくちで、

世間受けしそうな、非難を受けなさそうな、

綺麗ごとばかりを言って、権利ばかりを主張し、

そのくせ自己保身のチグハグな行動しか

しないので結局は、理想だけで結果が伴わず

不満ばかりを募らせてしまうイコール

カルマを作ってしまうという事になるのです。


まあ、そういう人達は勝手にやっていればよいのですが

日本は

そういった人達が増えている面も確かにあるのですが、

まだこういった禅や武士道などの教えがあるので、

そこまで堕落してしまう事はないと思います。


とにかく世間に惑わされる事無く、

死を覚悟した視点から生きていくようにまずは

自分だけでも心がけていこうと思います。



生きようが 死のうが そんなの関係ねぇ! 悟れば それで済む話じゃわい


腕を切り 覚悟を示した 二祖慧可に 見習い 生きてみたきものなり


生きづらい 平和がほしい 楽したい だからどうした 迷いを覚ませ


世間から 一人離れて 遊ぶ身は 心にかかる ものなぞもなき


カムナガラ 神のまにまに 生きるべし 世の習わしに惑うことなく




惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)




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