伏見区の外れに、羽束師神社(はづかしじんじゃ)という神社があります。
本当の名前は
北向見返天満宮と言うのだそうです。
だれが見返ったかと言うと、後述しますが、菅原道真さん。
JRからも、阪急や京阪電車からも遠くて、車で走っても見落としてしまいそうな小さな神社なのですが、歴史はとても古くて、後鎮座は477年だと言われています。
「ハヅカシ」とは、変わった地名だなと思いますが、京都の人は「はずかし」と聞くと「運転免許試験場のあるところ」と答えると思います。
出来たのは古墳時代になるようですが、いろんな文献に出てくるので昔は結構有名な神社だったのかもしれません。
奈良時代には「波都賀志」と書かれていたのでしょうか、続日本紀(しょくにほんぎ)にはそう書かれているそうです。
しかし平安時代には「羽束師」となっていたそうな。
京都の下の方で、ちょうど桂川と鴨川が合流するあたりにあって、昔はこの一帯は田園地帯だったと思われます。
川の対岸側には、皆さんがよく知っている施設があります。
お馬さん好きの人は淀の競馬場(京都競馬場)だとか、京阪電車の中書島駅があり、ここには坂本龍馬がよく泊まったといわれる有名な「寺田屋」があったり、その周りは黄桜酒造など酒屋が立ち並び、酒好きにはたまらない、酒蔵巡りができます。(「中書島駅近辺」)
なんだ辺鄙なところだな・・・と思うなかれ、それは今の時代の感覚です。
平安時代の初代天皇は桓武天皇。桓武天皇は平安遷都の前に少しだけ長岡京を作った。
この辺りはその長岡京と平安京の両方に関係する地域ですから、この京都の南の地域は今の感覚よりはかなり都会だったのではないかと想像します。しかしこの場所は川の傍でもあるので民家は少なかったでしょう。昔は堤防もなかっただろうから、川の合流地点には住まなかったはずです。
川の淵に建っており、五穀豊穣を願う神社のようですが、この神社は菅原道真で有名になったみたいです。(さほどは有名ではないかも・・・)
901年、菅原道真は都から大宰府に左遷されました。
その時に京都の(都の)南端にあるこの場所で都の方角を振り返って
「捨てられて、思うおもひのしげるをや 身をはづかしの 社といふらん」
と読みおえて、大宰府へと向かったそうな。
私は俳句や短歌は苦手なのでだれか教えてほしいのですけれど、これはやっぱり、都から追い出されて恥ずかしいと言うのと、この地の羽束師を掛けているのですよね?・・・・・?
そんなこともあってか967年に大社と呼ばれるようになり、産土神(うぶすなのかみ)・・・つまりこの地の鎮守様として今までに至るというわけです。
羽束師は「はづかし」ですが「はつかし」→「はにかす」→埴土(粘土)を煉(ね)る
なのだそうで、川が合流するこのあたりでは粘土質の泥田が広がっていたのでしょうか。
それを管理するのが「泥部(はつかしべ)」という朝廷の役所だったそうで・・・
なんだ、要するにこの辺りは昔はあたり一面が泥の田んぼで、そこに「羽束師神社」が出来て、小さな村が起こり、この神社を超えるともう都ではありませんよと言われるようになったということでしょうかいな。
平安時代なら、わたしはてっきり、東寺の近くにあった「羅城門」が都の一番南の外れだと思っていましたが、そうではなかったみたいですね。
勉強になりました。
さて、今日はこの羽束師神社のお祭りでした。
参道には出店が出て、神輿を担いで、結構賑やかでしたよ。
来年は私も神輿を担がなあかんみたいです。
そういう意味でも、この鎮守様に手を合わせて
「水害や地震が起きませんように、我々をお守りください」
と祈っておきました。