泣くまで待とうホトトギス
どころではない。
徳川家康は70歳を超えていた。
のんびりしていると死んでしまう。
大阪城を何とかしなければ。
豊臣秀頼に再建させた寺の数は80件を超えた。
(これで大阪城の金もなくなっただろう・・・)
家康はそう思ったに違いない。
しかし、大阪夏の陣が終わり、大阪城が徳川のものになったとき、大阪城の蔵には金銀合わせて今で言えば500億円も残っていた。
豊臣秀吉は、想像を絶する大金持ちだった。
しかし、浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正も亡くなった。池田輝政・浅野幸長そして前田利長までもが亡くなった。
家康は執念で死ななかった。
方広寺の釣鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」。
ごり押しでもなんでも、日本最大のイチャモンをつけるしかなかった。
そして夏の陣。
両者は激しくぶつかった。
大阪城天守閣に保存されている大坂夏の陣図屏風
織田信長、豊臣秀吉が目指した、商人の世の中。
家康は、一挙に農耕社会に変えてしまった。
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