室町幕府を築いた足利義満(よしみつ)。
室町幕府の全盛時代を生きた将軍。
人の隙や力関係を読み、利用することに長けていた。
天皇をそばに置き、花の御所(室町邸)つくり、そこから力で豪族をねじ伏せた。
義満は長男ではなく次男の義嗣(よしつぐ)をかわいがった。
長男の義持(よしもち)は不満だった。
義満は義嗣を天皇にしてしまい、義持を将軍に就けて、自ら院政(影で政治)をする絵を描いていた。
義嗣ばかりを天皇に会わせ、義持(よしもち)は、御所の門番のような役目ばかりさせられて義満を憎んでいた。
義満はとうとう毒殺された。
天皇が殺したとまで噂される。義持が殺したとも言われる。
義持は将軍になった。
義持は父憎しと金閣寺と花の御所を除いて全部壊してしまった。
そのくせ、政治は義満の政治を踏襲した。
しかし、豪族を抑え切れなかった。
ただ、この頃は室町幕府で一番平和な時代だった。
義持は義量(よしかず)を後継の将軍にしたが、2年で死んだ。
疱瘡(天然痘)という病気だったらしい。
室町時代は町が形成されて、人々が行き来しだした。
しかし衛生は悪く、医療も昔のままだった。
そこへ、貿易が行われるようになって、今まででは考えられない病気が増えた。
疱瘡(天然痘)、赤痢・・・。
宮廷や御所での恐怖は、戦争よりも病気だったろう。
義量が病気で死んで、義持の兄弟の義教(よしのり)が将軍になった。
義教は性分は織田信長ににているだろうか、とても短気だった。
「梅の花が落ちた」とか「料理がまずい」と直ぐに人を殺した。
延暦寺にさえ怒った。
後に信長が延暦寺焼き討ちを行うが、義教はある日延暦寺に怒って根本中堂を焼き壊した。
とうとう義教は赤松満佑(あかまつみつすけ)に暗殺された。
その後義勝(よしかつ)将軍になったが、赤痢にかかって馬から落ちて死んだ。
それで、義政が8歳で将軍になった。
最初は子供ながら政治を頑張った、しかし、大人が子供のいうことを聞くはずもない。
16歳になって、とうとう政治をあきらめた。
応仁の乱はそこから始まった。