大阪といえば、葱(ねぎ)である。
このあたりは明治時代は葱畑しか無かったらしい。
明治後期に博覧会が開催されて、500万人という入場者を記録した。
これを機会に路面電車や市電が敷設されて、街らしくなってゆく。
大阪はそういう性質が強い。
数日前に廃業したエキスポランド(大阪北、千里)のある万博公園もそうだ。
これを機会に新御堂筋が、大阪駅から千里まで開通した。
そして今や、一大ベッドタウンだ。
そして、明治末期に「通天閣」が出来る。
{余談:通天閣の天辺の色で天気がわかる。青が雨、オレンジが曇り、白は晴れとなる。
上側がオレンジで下側が青ならば、「曇り後雨」または「曇り時々雨」だ。}
このころは、天王寺駅が最寄駅で、新今宮駅は無かった。
通天閣は、現在よりも南にあって、その西側にルナパークという遊園地があった。
(昔の通天閣とルナパークを結ぶロープウエイ:大阪中ノ島図書館)
そこに、有名な「幸運の神」ビリケンさんがあったらしいが、現在は今の通天閣の中に置かれている。
このあたりは「新世界」と呼ばれて、芝居小屋や映画館があり、今のフェスティバルゲートの北に国技館まであった。
大正時代に天王寺動物園が出来て、その後に飛田遊郭が出来た。
飛田遊郭は、それまでの難波遊郭が消失したことにより、この地に誘致された。
そして、新世界から飛田遊郭にいたるまでの商店街では、遊郭へ向かう客の呼び込みなどに、太鼓や三味線が賑やかに鳴らされていた。
三味線のジャンジャンという音が基となて、このあたりを「ジャンジャン横丁」と呼ぶようになった。
昔は、ジャンジャン町と呼ばれていて、その北には温泉浴場があった。
ルナパークは、大正末期に不振で廃止される。
第二次世界大戦、昭和20年の大阪大空襲でこのあたりは焼け野原となる。
通天閣も一部倒壊をきっかけに解体されて、昭和31年に今の通天閣が出来る。
ジャンジャン横丁は戦後すぐに再興されて、やはり、一部が残った飛田遊郭と連携して発展してゆく。
温泉浴場は、戦後にストリップ劇場となり、「温泉劇場」と呼ばれた。
ここは、浪速の芸人の養成所のようなところにもなっていた。
間 寛平 などはここから鍛え上げられて来た芸人である。
今から50年ほど前に、現在の新世界が出来上がる。
大正に廃業されたルナパークの後地は、無法地帯となって、「釜ヶ崎」と呼ばれるようになる。
現在の萩之茶屋からあいりん地区のあたりだ。
それでも戦後は賑やかではあった反面、治安が悪いために一般人は踏み込めない世界になっていた。
私が知る20年ほど前ですらも、このあたりを歩くと周りからきつい視線を受けた。
サイフでも持っていると、その場で毟り取られるような緊張した雰囲気だった。
ジャンジャン横丁も、立ちんぼや美人局などが多くて、一度捕まると人生が終わるかのごとく、危険地帯としてうわさされるほどだった。
飛田遊郭は戦後の赤線から免れて、今の様相でひっそりと続いている。
フェスティバルゲートは、第3セクターで現在の通天閣の南西に出来た。
1997年だ。
大阪一の天然サウナ温泉と遊園地だったが、遊園地はやはり不振で閉園している。
フェスに行くには、地下鉄御堂筋線か堺筋線の動物園前駅で降りる。
駅の真上がフェスティバルゲートだから、直通エレベーターがあり、夜でも安全だ。
大阪を味わうならば、日本橋の電気街の一筋西(難波側)を千日前あたりから南に向かって歩けばいい。
大阪の戦後の雰囲気を堪能できるだろう。
フェスが出来たことで、新世界が変わった。
ジャンジャン横丁の半分は無くなり、環状線の北側一帯は、浮浪者が追い出されて警備員も増えて安全な場所となった。
これによって、ジャンジャン横丁は、レトロな大阪の観光地のようになってきた。
今の浅草のような感じだろうか。
飛田遊郭とあいりん地区は環状線の南側になる。
このあたりは以前とは比べ物にならないほど安全だが、雰囲気は怖い。
今でも地元以外の女性の一人歩きはやめておいたほうがいいだろう。
しかし、あいりん地区の住民も今は高年齢化が進んで過激な部分は無くなって来ている。
この近辺とそれにつながる日本橋電気街の一筋西側(裏通り)を歩くと、昔の大阪の雰囲気を味わえるだろう。