パラオ 疫病で川に沿って死者ずらり
長谷川清さん
明治45年生まれ
昭和7年徴兵検査、その後現役入営
習志野騎兵第16隊
昭和9年満期除隊
昭和16年応召
独立自動車42大隊(南方派遣1038部隊)
伝令係として部隊長の側にいた
昭和18年豪州を目指して船団を組み出航するも急遽パラオへ
昭和19年3月パラオ本島に米軍からの大空襲
爆撃で九死に一生を得る体験を3度ほどした
パラオ本島は空爆だけであったので生き残ることが出来た
パラオへ上陸してからは
毎日空襲、食糧事情は逼迫、餓死の悲劇が相次いだ
制空権、制海権は完全に敵に掌握され補給作戦は失敗した
九死に一生と言うが、私は三度生きています
三度目はパラオ本島で空襲に遭い、タコツボに入ることが出来ず、前の土手にヤモリのようにへばりついていました
その時、戦友は何と言いましたか、
「お母さん」
と、私はこの耳で聞きました
母は強い
時間がありましたら、
パラオ関係だけでも
記憶あることだけでも
話し合えればと思っております
昭和19年末~20年
空襲に代わり飢餓に苦しめられる
当初はヤシなどを取っていたが、それも無くなり、ビンロジュという木を三人かかりで倒して、先端のわずか数センチの食べられる柔らかい部分を食べた
これを食べると危ないとわかっていても食べた
食べて死ぬ者も多かった
マラリア、チフスと病気も蔓延し、一本しかない川の流れに沿って広がった
あと2~3ヶ月は生きられなかった
昭和21年 復員
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