シベリア 15歳の少年は「お母さん」と泣いた | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

シベリア 15歳の少年は「お母さん」と泣いた

成田富男さん

昭和4年12月15日生まれ

昭和19年3月満蒙開拓少年義勇軍志願、内原訓練所入所

昭和20年5月渡満、黒河省孫呉訓練所

昭和20年8月ソ連侵攻で、通称:山(第24師団)の部隊に編入

昭和20年8月戦後、黒河よりソ連に入り、シベリア抑留、伐採

昭和21年4月ウラル・オレンブルグ(第314収容所)建築作業に従事

昭和23年11月舞鶴に復員(18歳11ヶ月)




太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し



お母ちゃんの元に生きて帰れる嬉しいよー


昭和21年2月の寒くて風の強い日の夕方、シベリアの山中の伐採作業を終わり、帰り道で同班の人が一人行方不明になった

宿舎に帰って気付き、班長以下20名は夕食後、急ぎ帰り道を戻り、石油ランプと松明を燃やし、鉄鍋を叩いて探し歩き、作業現場の近くまで行って見つけて、持参の夕食を食べさせて交代で背負って帰ってきました


本人が言った

「作業でひどく疲れ最後尾を歩いたが、急に足の力が抜けて倒れ、立ち上がれず、大声で呼んだが届かなかった」

と震えながら言った

幸いにも焦って動き回ったりせずに、また眠くても眠らずに唯々友を信じて待ったので助かったのです


もしも方角も解らずに動き回れば元の位置には絶対に戻れません

また、救助があと数時間遅れたら凍死したでしょう


「皆、ありがとう。お陰で生きて母ちゃんの元に帰れる。嬉しいよ、ありがとう」

と言って泣き崩れたので見ていた全員が我が身に思えて貰い泣きしました


彼は、その後しばらく休養して元気になり、4月にウラルのオレンブルグに行き、建築現場で働き、帰国は昭和23年11月27日に僕達と共に無事に復員しました





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