北支 至近距離で激戦 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

北支 至近距離で激戦

斉藤興次さん

大正10年6月30日生まれ

昭和17年1月10日入営

北支派遣独立混成第8旅団

万里の長城を西に東に戦闘




昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発しました

昭和17年1月10日、北支派遣独立混成第8旅団春第2982部隊に入隊

そして初年兵教育が終わり、討伐・警備と日夜、八路軍との戦いでした

昭和19年1月26日、我が部隊は二昼夜に亘る索敵行動で疲労困憊し、話をするにも億劫な事でした


部隊は張家峡北方部落に位置し、我が中隊は南方張家峡を占拠すべき命を受けました

この部落は四方山に囲まれ、低い盆地で小さい部落でした


眠い目をこすり空腹を抱かえながら、部落北方二、三〇米近くに達するや、西片高地より一斉射撃を受け、中隊は皆、道路側の溝に遮蔽

敵は稜線より射撃し、一部は喚声を上げて山から下り前進してくるのが見えた


壕の中にいた兵は遂次脱出していきました

私は軽機の弾薬手として参りましたが、予備の弾と手榴弾と帯剣だけでした


壕の中には私とほか二名だけ残っておりました

仕方なく壕より出て前方の山に向って走りながら、天皇陛下万歳、お母さん万歳の声を耳にしながら、ひたすら走りました


どのくらい走ったか、そのうち腰がチクリと針を刺すような感じで前に倒れ、腰から血が滲み出ておりました

八路軍の弾が左腰後から前に貫通していたのです


やられたと思って振り向くと八路軍が三名追ってきました

私は手榴弾の安全ピンを抜くふりをして敵を威嚇しました

その時は、自爆を考えました


その時、忽然と母の姿があらわれ、手招きで無人の山へひた走りました

敵はあきらめて引き返してゆきました


私は山の稜線を歩き、ようやく友軍に辿りつきました

母の導きがなかったら、今日、自分はなかったと思います

この戦闘で中隊長も負傷して、自爆まで考えたそうです


今日あるのは戦死された方々のおかげです

心よりご冥福をお祈り致します


昭和20年8月 終戦

国民党軍に武装解除

昭和20年11月3日軍隊生活最後の演芸会を開催

演芸会当日、共産軍の激しい攻撃を受ける

至近距離で手榴弾の投げ合い

この戦闘で手榴弾の破片が目に入り負傷する

昭和20年12月24日復員





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