特攻隊員の声 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

特攻隊員の声

山口敦二さん

大正15年1月17日生まれ

昭和18年4月1日甲飛予科練、三重海軍航空隊入隊志願

昭和19年4月からフィリピン・シンガポール・ジョクジャカルタにて飛行訓練

昭和20年7月ジャワで第132航空隊・神風特別攻撃隊・竜虎隊を命じられる

台湾・虎尾基地に移動、赤とんぼでの特攻訓練

第3次竜虎隊は宮古島から赤とんぼで出撃

昭和20年8月第5次出撃隊として9月に出撃予定だったが、終戦により生命を永らえた




太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し




私は海軍甲種飛行予科練習生第12期として、昭和18年4月1日に、三重海軍航空隊に入隊し、一年の基礎訓練を受けて、昭和19年4月、呉軍港を出港、敵潜水艦の数多徘徊する中をフィリピン・ミンアダナオ方面、サランガニー基地を目指し、台湾高雄、フィリピンマニラ、セブ、レイテを経由、マニラからは爆弾輸送の軍艦厳島に便乗し、1トン爆弾を寝床として航海、敵潜水艦の魚雷攻撃を見張りによる早期発見で回避し、嵐の中ではヘドを吐き、黄色い胃液を吐いた

見張りを続け無事着任


半年の飛行を経て卒業し、一旦マニラに戻り、シンガポールに転出

その間奇跡的な運命の危機を乗り越えたら、地獄の戦闘訓練を終えて、セレクター基地、マレーのバドバハ基地でB29の迎撃隊として戦列につきました


昭和20年7月に、ジャワ島ジョグジャカルタ基地にて神風特攻隊を拝命し、空路台湾虎尾基地に転出、夜間特攻沖縄攻撃にむけて特攻訓練を続けました


時既にボルネオ島に米軍は上陸し、ジャワ島でも飛行機は特攻用として使用できず、毎日、陸戦による挺身切り込み訓練が続けられ、爆弾を背負って蛸壺に隠れ、戦車に肉薄して自爆する特攻訓練も受けていました

特攻隊を拝命した時は「これで飛行機で死ねる」と喜んだものです


刻、昭和20年7月29日、先着の同期5名が神風第3次竜虎部隊として沖縄嘉手納沖の米艦に突入し、この大戦における米艦最後の沈没艦「キャラハン」を轟沈し、他2隻の艦船を大破する戦果をあげました


その特攻機の飛行機は、「九三中練」といういわゆる「赤とんぼ」でありましたが、敵電深にかからず速度の誤認もあり成功を納めました

それから8月14日第4次16機が準備され、続々と続くところ、終戦により生命を永らえました


出征する戦友の蒼白な別れの顔、そして「あとから来いよ」の一言が忘れることが出来ません

壮絶な特攻により米軍を恐怖のどん底に落としいれ、日米共にその非を悟り、戦争の終結が実現しました


今日この平和を謳歌する時、国を譲り家族を守る為、生命を捧げた人々を忘れてはなりません

いついつまでも、子々孫々に伝え、その冥福を祈り、その顕彰に努めるべきであります

私達は、三重県香良洲町の慰霊碑前における慰霊祭と靖国神社参拝を続け、ご遺族への奉仕に努め、生ある限りのつとめを果たす覚悟であります




終わりに一首「戦友に捧げる」


亡き戦友(とも)よ

  国を譲りて  花と散り

    静まりたまえ  今の平和に



                       合掌





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