ルソン島 うじ虫喰って生き延びる | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

ルソン島 うじ虫喰って生き延びる

安田誠さん

大正12年3月福島県で生まれる

昭和19年4月1日現役入営、三重県多気郡の第7航空通信連隊暗号班

昭和19年8月豪北派遣隊として宇品出航

台湾沖海戦に遭遇し反転、台湾・高尾に非難

昭和19年11月マニラへ

昭和19年12月31日マニラ港上陸

第4航空軍司令部暗号班配属




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昭和20年1月26日北部ルソン・サンチャゴに撤退

16日に司令官富永恭次が高級将校と台湾に逃亡

昭和20年3月21日臨時、第五輸送隊に編入、バレテ峠の鉄兵団に食糧を運搬

昭和20年6月15日シェラマドレ山脈のジャングルに入る

サトウキビ畑から一斉射撃を受け、右足脛に貫通銃創

昭和20年8月5日ピナガバン(マデーラ)到着

敗戦を知らせるビラが撒かれたが誰も信じなかった

昭和20年9月半ばに敗戦を知る

米軍のトンボのような飛行機がまわってきて、少佐がメガホンで敗戦を伝えた

昭和20年9月17日武装解除しバダンガス捕虜収容所へ

昭和21年12月22日マニラ出航

12月31日佐世保港に到着し復員





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20年5月、バレテ峠防衛中の鉄兵団援護を命ぜられた

戦闘経験のない通信兵、武器は三八式小銃が3名に1挺

これで重装備を誇る敵に太刀打ちできるものかと初年兵の私でさえ不安を感じた


6月初めバレテ峠手前のコモンに到着

夜は静寂なるも、早朝から凄まじい砲声空爆が日がな一日絶えることなく続く

夜間斬り込み隊を結成、第一次十三名程で出発

敵陣二百メートル位まで迫った途端、一斉に照明弾が打ち上げられ

真昼間同然になり同時に銃声が鳴り響き

四名の犠牲を出して断念した


鉄兵団も壊滅的打撃を受け山岳地帯へ敗走の情報が入る

吾が隊も人跡未踏のシェラマドレ山脈を越えマデラに向け進むことに決定した


山中の戦闘で私は右脚下腿部に貫通銃創を受け

戦友に支えられビノンの谷に着く

鉄兵団の傷病者が何十名と臥している

薬品はなく、蠅の産むウジ虫に膿を吸わせる辛い治療の毎日

最後には、そのウジ虫も食べて飢えをしのいだ


戦友の肩か杖にすがり何とか歩行可能になった

ジャングルを徘徊した三十日余りは、極限の飢餓との戦いであった

食料は全く尽き果て、虫、蛭、蛙、木の実、草類、何でも手当り次第口にした

木の皮をむいて草蛙を作り、軍靴を飯盒で茹で食した兵もいた


山道を辿れば衰弱ひどく横たわる兵、既に息絶えている兵を毎日何十体も目にする

マデラに到着し何とか僅かながら食糧にも恵まれ8月半ばになり

敵機の撒く終戦を告ぐビラに誰一人信用する者はなかった






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