硫黄島 地下壕40度を死体とともに | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

硫黄島 地下壕40度を死体とともに

三田春次さん

大正11年生まれ

昭和17年徴兵検査 第一乙種

昭和18年8月15日横須賀鎮守府召集、その後301海軍航空隊

昭和19年6月頃301海軍航空隊主力はトラック島へ出動命令中、サイパンで玉砕

祥瑞丸で父島二見港へ上陸、その後爆撃で輸送船団がやられ身ひとつになる

大発4隻に分乗し硫黄島へ

硫黄島第1飛行場付き西波止場見張員

昭和20年2月16日米軍の艦砲射撃始まる

昭和20年5月初旬 壕の6~7名全員で投降




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想い起こせば65年前の7月30日夜の9時頃でした

当時私は21歳

通称赤紙といっていた軍隊からの召集令状を持って役場の小使いさんが訪れました

内容は翌8月15日横須賀海兵団に参集すべしとの趣旨でした

海軍の制服に憧れを持っていた私は喜びました


三ヶ月の訓練の末に配属された先が、新設されたばかりの301海軍航空隊という零戦を主力とした陸上戦闘機部隊でした

私は整備兵でしたが、日夜を問わずの激しい訓練の連続で、事故によって飛行兵の死者も何回か目撃しました


他方、ちょっとした失敗や怠慢な動作があろうものなら、罰チョクという制裁が待っており、鉄拳はおろか、海軍精神注入棒という丸太の如きバットで尻を何回となく殴られ、一時歩行困難に陥る程のヒドイ体罰の連続でした


昭和19年6月と思いますが、301空の先発隊が主力戦闘機を同道させトラック島に向ったのですが、途中、立ち寄ったサイパン島にて玉砕してしまい、私ども後発隊は父島に取り残され旬日後に、当時、硫黄島に展開中の南方諸島航空隊に吸収され、大発という小型舟艇に分乗し上陸して、以後、硫黄島の見張り要因として勤務しておりました



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その頃、私と山崎兵長が夜間宿直勤務中に、敵機の焼夷弾の直撃を受け内地送還を待つ時間も空しく、出血多量で絶命してしまい誠に残念でした

その頃より一層激しい攻撃が始まり、2月19日の上陸作戦となって世に伝えられる激しい攻防戦に突入したのでした


圧倒的な兵力で陸海空から攻めてくる攻撃には、九州出身者を主力とする我が陸軍の精鋭部隊と称していた守備隊でも精神力だけでは勝負にならず、敗退に一方でした

そして最後の砦となったのが、洞窟の陣地であり、暑い壕内で飲み水もなく、限られた携帯用の加工食にて生命をつないでの生活でした


私など自分の尿を口にしたことすらあり、しかし流石に喉は通らなかったです

バナナの新芽を摘んで食べ、飢えを忍んだこともありました

その間も壕の入口から数メートルの所に火炎放射器で焼かれた死体や散乱した白骨の横を通り抜けての食糧あさりなど、人間に出来る行動に有るまじき行為でした


一ヶ月半後の5月初旬かと思いますが、もう限界に達し、戦友数名と共に夜間を利用し、島外への脱出を企てましたが米軍に発見され、猛烈な機銃弾の雨の中、私の名を叫びつつ息絶えた馬込一等兵の声は今もって忘れ去ることが出来ません


私はその時、臀部に受けた手榴弾によって意識を失い、翌朝米軍の手中に落ち不名誉な結果を招いた次第です

収容所での生活は、紳士的な扱いを受け八ヶ月後に復員出来ました




昭和21年1月7日帰国、復員

20年7月に母が死んでいた

捕虜になり帰国復員という事が恥ずかしく、父にも兄にも父島からの復員だと嘘をつく

その後も真実を語ることはなかった




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