命令でも苦力(クーリー)を刺せなかった私 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

命令でも苦力(クーリー)を刺せなかった私

井ノ口金一郎さん

大正9年9月14日生まれ

昭和17年6月29日召集(22歳)後、27師団支那駐屯歩兵1連隊

昭和18年8月満州・錦州に駐留

昭和19年4月京漢作戦に参加、鄭州から漢口へ

昭和19年12月栄養失調・マラリアで野戦病院へ入院

昭和20年8月18日砂と煙で目が見えず九江病院に入院

入院中に敗戦を知り、武装解除後、上海の収容所で8ヶ月

昭和21年4月上海~博多に着き、復員





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農民拉致

「下士官を長とする兵4名は、明日払暁を期しA部隊に出動し、苦力10名を捕らえ、本部に連行すべし」

その場で下士官以下5名の氏名が読み上げられ、その内の1名に私も加えられる


不運にも日本兵に捕まったら、一生を棒に振る事にもなりかねず、男なら「苦力」として駄馬替わりに、戦死者が携行していた銃や帯剣、駄馬を失った本部の荷物等を前後の籠に入れ、天秤棒で担がされ、犬猫のような扱いをされ、何百キロも歩かされる

その事を骨の髄まで知っている農民が、た易く日本兵に捕まるはずがないのです


「火田」の宿舎から一時間余も歩く

目指すA部落が目前に迫ってきた

一軒の農家を取り囲む

男が一人土塀を越えて走り出した

私も気がつき後を追う

しばらく追ってゆくと小川の流れが目に入った

「しめた」と思ったのは私の側で、相手は勝って知っているせいか、水しぶきを上げながら渡ってしまい、夢中で二発射ってしまった


結局は逃げられ、仕方なく農家の前に戻ると、待っていたのはY伍長の怒声であった

「バカ者、何で勝手に銃を射つんだ」

「お前のお陰で部落中の苦力は逃げてしまったぞ」

弁解の余地はなく、「ハイ」「ハイ」を繰り返すのみ


目的を失った私達は、いまいましい気持ちのまま帰途につく

途中、一軒家に人影を見つけて入っていくと、50過ぎの男が寝ており、少年が付き添いをしていた

話しかけると、片言の日本語で、

二人は親子で、剣部隊に捕らわれ働いていたが、父親が病に倒れ解放してくれたが、発熱し、ここで休んでいたところだという

Y伍長から、「二人を連れていく」と言われ

少年を両腕から有無を言わさず引き立てる

病人の父親は両脇から二人で支えるが、足許が定かでない


Y伍長が「農夫を置いてゆけ」と怒鳴った

内心はほっとする

農夫は転んでは起き上がりながら追ってくる


Y伍長はイライラしながら

「井ノ口上等兵、農夫を刺せ!」と命令した


いくら今日の失敗が私にあったとは故、おれも三年兵だ

意地にかけてもこんな命令は聞けない


「井ノ口、刺せ!」

再びY伍長の命令がきた

私は「ハイ」とも「刺せません」とも言わなかった

すると脇にいたS一等兵が、私の銃に手をかけY伍長の表情を見た


Y伍長が語気鋭く

「S一等兵、刺せ!」と命令を下した

S一等兵は私の銃に自らの帯剣をつけ、やっとの思いで歩いてくる農夫の胸部目掛けて一突きすると、脇の深田に腰から崩れるように沈んでいった


凝視する私達の目の前に、今沈んだ農夫が頭から泥水を被り、両手を上げ、苦しげな表情で畦道を探すのを見て、S一等兵が再び突くと、二度と水面には浮かばなかった

父親の殺させるのを目の前で見て、少年は泣きわめきながら本部へ連行された




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これが中国戦線での一般人に対する日本兵の姿だったのか・・・

南京の大虐殺はあったか、なかったか

そんなことはどうでもいい

この証言を聞けば大体わかること

多かれ少なかれ、あったのは事実である

問題を数に焦点をあてがちであるが

数ではないだろう

また、あったにせよ

問題は戦争というものは、このようなことまで犯してしまうということだ

人間に生まれた以上は命というものをもっと見つめてほしい

しかし、人間であるからこそ戦争も起こるもの・・・

悲しいことだ





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