最後は自分の糞を食べた シベリア | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

最後は自分の糞を食べた シベリア

中島裕さん

大正15年5月12日生まれ

昭和19年4月20日志願入隊(17歳)

昭和19年8月5日満州の牡丹江温春第9164部隊に転属

その後、間島省間島8316部隊に派遣

昭和20年8月8日ソ連軍、満州に侵攻

昭和20年8月16~17日ソ連軍の戦車群に囲まれ、武装解除

昭和20年11月貨物列車に乗せられ国境を越えて北上

シベリア、イルクーツク州タイシェット地区46km地点の第五収容所に入所

伐採作業、積載作業に従事

昭和23年5月祖国帰還の命により、足首骨折入院していた病院を出発

昭和23年6月11日ナホトから出港し、14日に東舞鶴港に上陸帰国し復員




太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し





私はシベリア抑留経験者であります

皆さん、腹が減って腹が減って、食うものが何も無くて、自分の排泄物まで食わなきゃ生きていかれない

そんな状況を想像して頂けますか


敗戦の年の、暮れも押し詰まった頃の夕食時間でありました

ベッドの上にあぐらをかき、僅かな稗の雑炊を、ボソノソと戦友と話しながら食べておりました

その内、ふっと会話が途切れ、見ると手に飯盒とスプーンを持った儘うなだれております

「おい、どうした どうしたんだ」

彼はまったく動きません

その時、既に彼はこと切れておりました

栄養失調で死んだのです


それからは連日のように朝起きたら隣の人が死んでいたとか、作業中に死んだとか、翌年の三月過ぎまで彼方此方の宿舎から死者が出てきました

死者は裸にしてラーゲリの近くの丘に埋めました



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マイナス40度

凍土はコンクリートのようにカチカチで、薪を山のように積んで火を焚き、凍土を溶かしながら、一日がかりで掘っても小さな穴しか掘れません

3,4人をまとめて一つの穴に埋めました

我々はその日の朝の本部命令でやる仕事で、死者の名前も知らされておりません


同じものを食い、同じ作業をしているのですから、我々も同じような栄養失調者です

明日は自分が埋められる番かも知れないと思いながら作業をしてました

粟や稗の雑炊は、精米機などが無く、殻付きのまま煮るから殆んどはじけていない

3,4日に一度しか出ない自分の排泄物を見ると、ガサガサ食うから、粟おこしのような粒々が丸い棒状で出てくるのです

これを飯盒に入れ、雪を入れ火にかけて溶かし、何べんも洗って、匂いをとって、ゆっくり煮ると、どうやら食えるのです


翌年、4月頃になり、食糧事情も少し改善され死者が減ってきました

おそらく、シベリア抑留者の8割くらいはこの時期に亡くなっていることと思います


私は昭和23年6月に帰国しましたが、沼津駅頭に父が人力車を用意して待っておりました

家は駅から徒歩5分くらいの場所なので、私は元気だからと人力車のお父さんに帰ってもらいましたが、父は

「お前が栄養失調で歩けないのではないか」

との心配からしたことでした

それほど、当時はシベリアからの帰国者の中には廃人同様の人がいたのも確かでありました






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