西部ニューギニア 目的地到着前に壊滅 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

西部ニューギニア 目的地到着前に壊滅

宇多田正純さん 


大正9年生まれ

昭和17年広島の工兵隊に入営

昭和19年2月19日マニラ経由でニューギニアへ向かう



西部ニューギニア

目的の島に着く前に2千人が2割以下に減ってしまった

「幻に終わった陸の特攻隊、第一遊撃隊」



太平洋戦争全域に拡げた日本軍の戦線は、昭和18年2月ガダルカナル島の撤退に始まって、転進、玉砕が諸所で相次ぎ綻びが出始めた


そんな態勢を食い止めるため、第一遊撃隊という新しい部隊が編成されました。

幻の第一遊撃隊。

10個中隊の編成で、工兵の下士官だった私は第4中隊に所属する分隊長要員として転属しました。

部下となる兵隊は、ジャングルに強く勇敢の定評のある台湾の高砂族が予定されていました。


私達、遊撃隊の任務は、敵中奥深く潜入し、敵の高等司令部、飛行場、重要物資補給基地を奇襲攻撃すると遊撃操典にも示されていました。

道も地図もないニューギニアの千古の原始熱帯雨林を辿って、敵の歩哨線をくぐり抜け、後方の司令部や補給基地を探して奇襲攻撃するなど至難な業です。

たとえ首尾よく目的を達しても、生還は百%不可能でしょう。

また、こういう死を共にする任務を遂行するには、全員が一心同体の訓練が必要でしょう。

劣勢になって急遽考えた泥縄式の玉砕戦法にどれだけの効果が期待できたか疑問です。


高砂族は海路を拒まれて追及ができず、敵潜による海難事故もあり、南太平洋を3ヶ月も逃避航するうちに、目的地のホーランジャは米軍にとられ、私達は西部ニューギニアのマノクワリに上陸しました。


私達の船を最後に、以後、空海からの連絡、補給は一切ありません。

米なし、食糧なし、塩だけは空襲の合間に海水を煮詰めて少量生産しました。

被服は着たきりの雀の一着だけ。

医薬はなし、弾薬なし・・・。

タピオカとサツマ芋を栽培し、トカゲ、蛙、蛇、バッタ、雑草・・・など、毒にならないものは何でも食べて、米軍・栄養失調・マラリアと闘い、2年間、命をつないだのです。


米軍は私達を横目で見ながら、モロタイ島、フィリピン、沖縄へと矛先を向けて行きましたので、私達は激闘を免れました。


空の特攻隊、海の回天特攻隊、幻に終わりましたが陸の特攻隊員として、かつて同じような立場に置かれた私は、彼等が最後に特攻に向った時の心情を思うとき、名状し難い想いに胸を痛めます。


この捨身の戦法が果たして戦局にどれだけの効果があったのか疑問です。

特攻は平常心を失わないとできないように思います。