テニアンに供養に行こう 第一部 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

テニアンに供養に行こう 第一部

テニアンに供養に行く場合

安上がりなのはサイパンよりフェリーが良いでしょう

しかし、3年ほど前までは1日に7往復ぐらい

していたのに今では3往復ぐらいしかありません

その時間帯があまり都合が良くありません

便利なのはサイパン空港からセスナで飛びます

片道$38ぐらあいだったと思います

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
零戦から見るとこんな感じかなあと
考えてしまいます
飛び立ってから10分でテニアンに到着する


到着すると空港の向かいにレンタカーがあります

道に詳しければ自分でのんびりレンタカーが良いでしょう

私はガイドを頼みガイドの車に乗せてもらいました



太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
なんと!荷台に箱乗りでした
こちらでは当たり前の光景です
が、ここで自分が乗るとは・・・

なかなか足場というか、座り心地が・・・

ガイドが椅子を置いてくれたので一安心o(^▽^)o

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
でもまだ不安そうな感じですね

では最初に米軍の上陸した北方面から回りましょう



テニアンの道は南北に2本の直線道路があります

ガイドの運転手は荷台のことを忘れ

東側のブロードウェイを北にぶっ飛ばします


太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
風が心地よい・・・
というよりも顔が・・・


最初に訪れたのはラッソ山東のNKK神社
太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=

NKKという神社の名前は珍しいですね

NKKとは南洋興発建設のことです

ここは1941年に砂糖キビ運搬用の線路があった跡地です


そこから1キロ走るか走らないかのところに

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=

通信基地の建物が残ってました

この通信基地には巨大な貯水タンクがあり

補給用に飲み水が蓄えられていた




そこからすぐ北側に日の出神社があります

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
5年ほど前に来たときは
鳥居があったように記憶してたが・・・
いまではまったくの跡地でした

1945年に米兵によって再建され
米兵の慰霊碑とされた



さらに北に向って走ると右側に海岸が見えてきます

この海岸はブローホール(潮吹き岩)として有名です

我々は立ち寄らなかったですが

岩と岩の隙間から高いもので10?ほど上に潮を噴出します

このあたりは実弾演習場だったため

不発弾がいまだに多く残ってます

危険ですから柵が立てられてました




その潮吹き岩の入口の反対側に左に曲がると

エイブル滑走路です

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
この一番北側の滑走路がそのまま残っている
ここに1945年12月最初のB29が到着した


太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し-091025_200327.jpg
米軍がテニアンを占領した後のB29の滑走路です
この写真の左方向が北です
左の海岸が潮吹き岩

米軍はテニアン攻略後35日間でエイブル滑走路を建設し

あとの3本を24時間休みなしの11ヶ月で建設した

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=


1945年8月6日にこの滑走路からエノラゲイが

原爆を搭載し飛び立った


太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
ウシ飛行場
原爆搭載地ですが元々は日本軍の第一航空艦隊司令部があった


太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
広島に向ったエノラゲイの原爆搭載ピット

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
長崎に向ったボックスカーの原爆搭載ピット


次に普段ではめったに立ち寄らない場所

日本軍燃料庫跡です

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=

ここまでの道は固い岩盤を切り開き

この入口に続いてます

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=
まったく気味の悪いところです

中を覗けばドラムカンがゴロゴロ転がってます

太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し border=

可燃物を保管してただけあって

庫内の基礎はこれ以上ないほど頑丈でした

この保管庫のすぐそばには弾薬庫があったらしいが

危険なため破壊されたそうです




第二部につづく