テニアン島 玉砕突撃
30日、第一航空隊は海軍司令部に集合と命令が出た
![$太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し](https://stat.ameba.jp/user_images/20091029/19/tashutayou/8d/e9/j/t02200147_0800053410290334288.jpg?caw=800)
カロリナス台地にあった海軍司令部の洞窟
この台地は岩場が多く、敵の弾を避けるには適していた
しかし、水は無く食糧も無い
ライオン岩あたりでは日本兵も民間人も区別がつかないほど
艦砲や空爆の威力の凄まじさを見るばかりであった
この頃になると米軍の攻撃はカロリナス台地に集中し
砲爆の嵐であった
砲爆の破片が身体に当たるだけで重傷となり
その血で台地を染めるだけである
当たらないものは、ただただ身を守るためじっとするしかない
戦友の手当てすら出来ないほど砲撃の嵐であった
歩兵50連隊長緒方隊長はグアムにいる第31軍司令官小畑中将に最後の打電をした
「守備隊は陸海軍共同一致奮戦敢闘せしも将兵相次いで倒れ、最後の処置を完了し、最高指揮官を先頭に近く最後の突撃を敢行せんとす。部下将兵の勇戦にも拘らず小官の指揮、拙劣なりし為、テニアン守備の任務を果たし得ず、光輝ある軍旗と歴史ある陛下の連隊と、共に玉砕せんとす。」
こうして8月2日夜に軍旗を奉焼し、残存部隊・民間義勇隊の約1000名は0時をもって、
カロリナス台地に迫った米軍に対し、最後の玉砕突撃を敢行した
米軍の戦車とバズーガ砲の威力は凄まじく
殆んどの日本兵は倒れていった
島を何度も脱出しようとしたが、全て失敗に終わった海軍の高級将校
角田覚治長官は手榴弾を持って、洞窟を出たまま戻らなかった
その後を追い、参謀長以下参謀全員と第56警備隊大家吾一大佐も自決した
7月24日から10日めの夜明けでテニアンの日本軍組織的防戦は終了した
テニアン戦の死傷者
日本軍
戦死者 5000名以上
戦闘以外 4000名前後
捕虜(終戦前)252名
捕虜(終戦後) 61名
米軍
戦死者 389名
負傷者 1816名
民間人
戦没者 3500名
収容者 12179名
テニアンでの戦いはサイパンよりは簡単でわかりやすい
しかし、テニアンにて遺骨収集をした場合に
米軍上陸地での2500名もの遺骨が全然見つからなかったらしい
生還者の証言によれば、米軍が上陸する時には
すでに80%の守備隊が亡くなっていたのではないか?
という説があります
では水際戦闘は実際には無かったのではないかと考えられる
8000人の守備隊は
上陸前のサイパンからの砲撃、艦砲射撃、600機もの戦闘機による空爆
これらで殆んど死に至ったのではないか
そう考えた場合
玉砕突撃には民間人3500人と1600人の生存兵であり
上陸予想地のテニアン港あたりからカロリナス台地で
砲撃による死者の約6000人が眠っている場所ではないかと予想できる
テニアンでの生還者は、飛行機の無い飛行部隊や工兵といった
武器を所持していない日本兵が多い
従って、突撃の場所や激しい戦闘の場所にはいなかった
どれぐらいの人数がいたかどうかは憶測になってしまう
テニアン戦での詳細はまだまだ時間をかけて調べなければならない
![$太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し](https://stat.ameba.jp/user_images/20091029/19/tashutayou/8d/e9/j/t02200147_0800053410290334288.jpg?caw=800)
カロリナス台地にあった海軍司令部の洞窟
この台地は岩場が多く、敵の弾を避けるには適していた
しかし、水は無く食糧も無い
ライオン岩あたりでは日本兵も民間人も区別がつかないほど
艦砲や空爆の威力の凄まじさを見るばかりであった
この頃になると米軍の攻撃はカロリナス台地に集中し
砲爆の嵐であった
砲爆の破片が身体に当たるだけで重傷となり
その血で台地を染めるだけである
当たらないものは、ただただ身を守るためじっとするしかない
戦友の手当てすら出来ないほど砲撃の嵐であった
歩兵50連隊長緒方隊長はグアムにいる第31軍司令官小畑中将に最後の打電をした
「守備隊は陸海軍共同一致奮戦敢闘せしも将兵相次いで倒れ、最後の処置を完了し、最高指揮官を先頭に近く最後の突撃を敢行せんとす。部下将兵の勇戦にも拘らず小官の指揮、拙劣なりし為、テニアン守備の任務を果たし得ず、光輝ある軍旗と歴史ある陛下の連隊と、共に玉砕せんとす。」
こうして8月2日夜に軍旗を奉焼し、残存部隊・民間義勇隊の約1000名は0時をもって、
カロリナス台地に迫った米軍に対し、最後の玉砕突撃を敢行した
米軍の戦車とバズーガ砲の威力は凄まじく
殆んどの日本兵は倒れていった
島を何度も脱出しようとしたが、全て失敗に終わった海軍の高級将校
角田覚治長官は手榴弾を持って、洞窟を出たまま戻らなかった
その後を追い、参謀長以下参謀全員と第56警備隊大家吾一大佐も自決した
7月24日から10日めの夜明けでテニアンの日本軍組織的防戦は終了した
テニアン戦の死傷者
日本軍
戦死者 5000名以上
戦闘以外 4000名前後
捕虜(終戦前)252名
捕虜(終戦後) 61名
米軍
戦死者 389名
負傷者 1816名
民間人
戦没者 3500名
収容者 12179名
テニアンでの戦いはサイパンよりは簡単でわかりやすい
しかし、テニアンにて遺骨収集をした場合に
米軍上陸地での2500名もの遺骨が全然見つからなかったらしい
生還者の証言によれば、米軍が上陸する時には
すでに80%の守備隊が亡くなっていたのではないか?
という説があります
では水際戦闘は実際には無かったのではないかと考えられる
8000人の守備隊は
上陸前のサイパンからの砲撃、艦砲射撃、600機もの戦闘機による空爆
これらで殆んど死に至ったのではないか
そう考えた場合
玉砕突撃には民間人3500人と1600人の生存兵であり
上陸予想地のテニアン港あたりからカロリナス台地で
砲撃による死者の約6000人が眠っている場所ではないかと予想できる
テニアンでの生還者は、飛行機の無い飛行部隊や工兵といった
武器を所持していない日本兵が多い
従って、突撃の場所や激しい戦闘の場所にはいなかった
どれぐらいの人数がいたかどうかは憶測になってしまう
テニアン戦での詳細はまだまだ時間をかけて調べなければならない