玉砕サイパン 多くの死と救われた命 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

玉砕サイパン 多くの死と救われた命

マッピ岬では悲惨な光景が地獄図のように描かれた


しかし次々と米軍に捕まり捕虜となるものも多かった


岐阜県海津郡出身の田中重彦軍曹はアメリカ兵に向って両手を挙げて飛び出した
その瞬間は激しい機関銃が鳴り響いたが、アメリカ兵の下士官が制して近づいてきた
そして捕虜として連行され、食料をもらい、飲料ももらったと言う

田中軍曹は第43師団の通信隊であった
バンザイ突撃の際、通信隊にも総攻撃の命令が下り、7月7日集結場所のマタンシャ国民学校に行った
学校の校舎は焼け落ちて残骸だけだったが、校庭には日本兵でいっぱいだった
通信隊隊長の鷲津吉光大尉とともに、銃に弾を込め、帯剣を銃につけ、「行くぞ」と声がかかり、隊長を先頭に南を目指した

やがて米軍の機関銃がうなり、砲弾の嵐となったが、伏せては歩き、歩いては伏せて前進した
しばらくして「とてもだめだ!下がれ、下がれ」と前方の兵が大勢引き揚げてきた
「引き返せ!」という命令も聞こえ、集結場所だったマタンシャ国民学校まで引き返した

そしてジャングルに戻り、鷲津隊長が低く乾いた声で言った
「斉藤師団長はじめ軍首脳は自決された。無線は内地への最後の報告も終わり破壊された。諸君は7月7日をもって全員戦死したものと認定される。長い間ご苦労であった。只今から軍の指揮編成を解く。上官も兵もないし、階級もない。諸君はなるべく小集団に分かれ、全島に散開せよ。命を大事にし、無駄に捨てないようにせよ。諸君の武運長久を祈る。」

兵達のすすり泣く声を消すように、スコールが激しく一段と音を高くした
夜が明け一人ずつ兵達が去っていった
鷲津隊長はタポチョ山の方面に行った

田中軍曹は水は無く、食料も無く、移動して逃げ回って逃げることも考えたが、生きる場所はないように思われた
死ぬならここだなと思った
弾も手榴弾も自決用だけ残してあった

しかし、急ぐな急ぐな、ゆっくり考えろと何かがささやいた

田中は京都大学法学部を出たエリート下士官であった
そして自決、突撃死のほかに、こつ然と第三の道がひらめいた
大学で学んだ国際法の講義でジュネーブ戦時捕虜条約のことである

米軍は条約に基づいて捕虜の命を助けるだろうか



日本軍はこの条約を無視して多くの殺戮をやってしまっていた
当然この時の田中軍曹は米軍も殺戮をするであろうと思っただろう
この条約を守っていれば多くの民間人も地獄絵を描かなくてもよかっただろう


田中軍曹は米軍が条約を守るかどうかの賭けにでた
小銃と認識票を捨て両手を挙げて投降したのです

このように悲劇の場所においても、鷲津大尉のように命の大事さを部下に教えるようなこともあった
田中軍曹のようにジュネーブ条約を信じ一命を取り留めた例もあるのです
米軍は捕虜収容所において食料を与え畑も耕すこともできた



私の知り合いに福島県の秋山さんという女性がおります
秋山さんの家族はサイパンで郵便配達をしていたそうです
サイパン女学校に通うお姉さんの他の兄弟と共に幸せに過ごしていたそうです
このとき秋山さんはおかあさんのお腹の中でした

米軍上陸後、家族はジャングルに非難し逃げ惑う生活に急転換しました
逃げる途中にも次々と兄弟は倒れていきました
民間人はみんな北に向って逃げたのですが
秋山さん家族は北に行けなかったのか、方向を間違ったのか
何故か南に向けて逃げたそうです

これが運よく米兵に捕まり捕虜としてススペの収容所生活となったのです

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ススペ収容所


そして間もなくここで秋山さんは生まれたのです
生まれた時は500gしかなかったそうです
ご飯は缶詰の空き缶でお粥を炊いたそうです
それで今は二人の子供も成人し頑張って福島で生活されてます
昨年もサイパンに一緒に供養に出かけました


また、バンザイ突撃で先頭を切って攻め込んだ平櫛参謀は
爆撃により重傷を負い即死寸前で米兵に捕まりました
気がついた時は米軍の軍艦の中のベッドで医療処置をされた後だった
そして一命を授かり
「サイパン肉弾戦-玉砕戦から生還した参謀の証言」という本を発刊してます


野戦病院はドンニーを最後に地獄谷に移動しました
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これはドンニーの野戦病院跡の洞窟です
多くの動けない負傷兵が自決をしました

野戦病院部隊には軍医の他に三浦静子という特志看護婦の少女がいました
野戦病院の深山隊長と森中尉は静子に白いハンカチを渡して降参するように進めた
「命を大事にするように」と。
そして周りにいた負傷兵が次々と手榴弾で自決をはじめた

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地獄谷の洞窟
この周りのジャングルに蛸壺がいくつもあり
そこに軍医と三浦静子は隠れていた
この周りでも突撃に参加できない負傷兵は皆自決した


するとそこへ米軍が攻めて来たのです
深山隊長は「看護婦今だ。出て行け。君だけは生きるんだ。野戦病院はここで全滅したと友軍に伝えてくれ。」
と叫んだが少女は蛸壺の岩にしがみついてしまった
深山隊長は拳銃を喉元にあて発射し、森中尉は海軍ナイフで自決した
少女も手榴弾の安全ピンを抜き、石に叩きつけてそれを抱いてうつ伏した

少女は人の声に意識を取り戻した
薄目を開けてみると、そこは民家の中のようなキャンバスベッドに寝かされていた
何人かの黒人兵4人が彼女を担いできたらしい
下腹部に重傷を負っていたが賢明の救護で命を救われたのです
三浦静子さんは当時18歳でした
帰還して菅野の姓になり「戦火と死の島に生きる 太平洋戦・サイパン島全滅の記録」という本を出版しています



米軍の弁明をするつもりではありませんが
米軍は多くの日本人を戦死させましたが、多くの生も与えたのです

ススペの捕虜収容所には日本人14,000人も収容されたのです