戦友(とも)よ、語ってから死のう。その18 従軍 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その18 従軍

18 坂本 初枝 さん 80歳

従軍看護婦/1946(昭和21)~1958(昭和33)年4月/中国

昭和33年復員 
  看護婦として中国共産党軍に徴用、
                  野戦病院へ


私はハルピン市で終戦を知りました。終戦の年の九月、私が勤務していたハルピン市満鉄病院にソ連軍がやって来て、病院の強制接収が始まりました。ソ連軍の命令の中に、「患者全員を退院させよ」というのがありました。

問題は動けない重症患者をどうするかということです。病院上層部から安楽死の指示が出されました。

二人の例をお話します。
一人は私の同期の看護婦が重度の結核で入院していました。妹の手でモルヒネを打ちました。

二人目は関東軍少尉の新妻です。同じく重症の肺結核でした。ある日、少尉が来られ、私共に花嫁衣装を手渡され、自分は部隊と行動を共にする。もう妻の元には来ることが出来ません。よろしくお願いしたい、と挙手の礼をして帰られました。

私たちはぎりぎりまで看病しました。でも時間が来てしまいました。新妻に花嫁衣装を着せ、お化粧して、そしてモルヒネを打ちました。

二人とも、病棟近くの防空壕に寝かせ、土をかけました。私共には重症患者をソ連軍の渡すことは絶対出来ないことでした。

昭和二十一年四月、人民解放軍に依り、かなりの日本人医療関係者が強制抑留されました。当時、中国国内戦が拡大しつつあり、野戦病院の必要性が高まっていたのです。

私は兵站病院に配属され、すぐに八~十二時間の夜行軍が始まりました。昼間患者の手当てをし、夕方になり後方病院に送り出す。私たちは前線部隊を追って夜行軍。
こんな情況は四年も続きました。

薬品不足、材料不足の中で、私たちは出来る限りの努力工夫で患者の手当て、救命活動をしました。
自分たちの睡眠時間を割いて材料の用立てをしました。
負傷兵には輸血の必要な者もいます。中国人は血を人にやるなどありえないのです。

私は自分の血を四回輸血しました。食欲のない患者に、自分のお金で食べられそうな物を買ってきて食べさせたことも。

便秘で苦しむ患者を助けるため、自分の指に油をぬってかき出したことも。浣腸器なし。

日本人は患者に常に声を掛け、不安を取除くと同時に、病気の変化を早く見つけて処置するなど、常に努力しました。

日本人の中にも病人は出ました。しかし、休養も充分とらず職場に出て病人の治療にあたりました。私共、日本人は本当に働きました。中国幹部職員患者も、あなたたちは、どうしてそこまで出来るのか?と言っていました。
私共、医療関係者は中国医療関係者に、お手本になれたと思っております。

私の気持ちの中には、日本軍国主義が中国で犯した罪に対して、一日本人として申し訳ない気持ちと今、罪のつぐないの一つをしていると思っていたような気がします。

(地図・写真略)


略歴  
1929(昭和4)年生まれ

1945(昭和20)年
ハルピンの看護学校を卒業、招集を待つ病院勤務中に終戦。
ソ連の病院引き渡しを経験。
日本人会本部病院に逃げ込む(赤十字の旗があり、安全だった)
共産軍から医師、看護婦100名を出す様要請ある

1946(昭和21)年~1949(昭和24)年
四平市~山海関~天津市
もっとも戦争の激しい時期、戦火の中一晩に8~12時間の行軍を強いられる。
20歳で医師助手を命じられる。

1949(昭和24)年~1951(昭和26)年
黄河を渡り武漢市 終戦からここまでの5年間は農民の家屋が病室に当てられ、電灯の明かりが無し。

1951(昭和26)年~1953(昭和28)年
玉林市、南寧市 スパイと言われながら悲しい辛い勤務。元日本の病院があり。
毒殺される患者

1953(昭和26)年~1957(昭和32)年
北京郊外 小児科、保育診療室予防医学健康手帳作成、野戦病院集結

1957(昭和32)年~1958(昭和33)年4月
大原市 元日本鉄路病院勤務。
この病院を最後に12年間の医療勤務を終えて帰国。



●『従軍看護婦』
日本の従軍看護婦制度が始まったのは明治20年代と言われる。
日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも、戦地に出動するのが原則であった。

事実、太平洋戦争時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくない。
日中戦争が勃発し戦線拡大すると、従軍看護婦の不足と従事者の補充が大きな問題となった。

そこで、日赤は従来3年だった救護看護婦の教育機関を2年半に短縮した。
1942年には従来の救護看護婦(高等女学校卒業)を甲種看護婦に格上げし、新たに乙種看護婦(高等小学校卒業の学歴で、2年間の教育)という速成コースを設けるとともに、採用年限の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げられた。
  
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は
日赤出身者だけ960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)
延べにして35000名(そのうち婦長は2000名)で、うち1120名が戦没した。

太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20500名、そのうち外地勤務は6000名にも上った。

応召中の日本看護婦は15368名であった。
海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。