戦友(とも)よ、語ってから死のう。その13 ソ連参戦 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その13 ソ連参戦

13 松倉 一悦 さん 83歳

陸軍/1945(昭和20)年3月 現地招集/輜重兵/北満州・孫呉/シベリア抑留


ソ連参戦 急造爆雷を抱き特攻待機、
      戦車は一つ向こうの道を行った



昭和二十年三月、北満・孫呉の輜重部隊に現役入隊しました。
入隊後はソ連との開戦に備えて毎日塹壕堀りと敵戦車を破壊し、擱座するための飛込訓練でした。
車力を戦車と見立てて必死の訓練でした。

八月十四日、ソ連軍が黒河方面より侵入の報で、初年兵で斬込隊を編成し、黒河方面へ出撃しましたが、全員部隊に帰隊せず生死不明でした。
部隊に残った初年兵は私たち二、三名のみで、飛込特攻要員として志願待機していました。

敵戦車近接の報により、進入しそうな各道路に配備されていました。

急造爆雷は約四十センチ角の木製の箱で、信管と第二ボタンを紐で結び、腕を伸ばせば瞬時に爆発し、粉微塵となります。
飛び込みのタイミングと、キャタピラの下敷きになると同時に腕を伸ばすことが、敵戦車を擱座させ破壊できるのです。

爆雷を胸に抱き、待機して、ふと空を見上げると空は真青で、生死を超越した澄み切った気持ちで待機していました。
ただ、今まで親孝行をしなかったことを心の底より深くお詫びしました。


近隣の道路で激しい機銃音、爆発音と黒煙が見えましたが、敵戦車はいくら待っても来ず、他の道路に進入したので、部隊に帰るよう連絡があり、直ちに帰隊しました。

十五日の夜、重大発表があるから待機の指示があり、終戦となったので自決、逃亡各自の判断に任すということでした。
部隊宿営地で疲労困憊の果て寝込み、翌朝目を醒ますと人影もなく、呆然自失でありました。

ウロウロしていると、召集兵とおぼしき老人兵があちこちから三、四名現れ、みんなどうして良いか判らない状況でした。
協議した結果、ともかく南下しようと決まり、そばの自動車に乗り、興安嶺の山々を乗り越えようとし時、ソ連機と遭遇し、爆撃と機銃掃射を受け、一名が行方不明となりました。

さらに南下すると、小興安嶺の街はずれで道路が爆破され通行困難でありましたので、運転者を除き全員下車し、破壊された場所を避け、車の先頭を縄で結び、土手から落ちないようにゆっくり進行させることとなり、私が先頭になり引っ張りました。

運転者がブレーキとアクセルを踏み違え急発進したため、引っ張っていた縄がたるみ、ひっくり返った私の胸、肩、手の上を通り、私は絶息状態となり、七転八倒し、あまりの苦しみで射殺しようしたところ、何かのはずみで息を吹き返したので、荷台に乗せたと後で言われました。

更に進行したところ、道路の鉄橋が破壊され通行不能となり、引き返して鉄道の鉄橋を渡って南下することとなり、君を一緒に連れて行くことは無理であるので、この駅に置いていくから最終の迎えの貨物列車が午前二時ころ迎えに来る予定だから、それに乗って北安まで行きなさいと言われ降ろされた。駅舎の中は無人で、近所の開拓団の家の押入れに隠れ休息していた。

真夜中に汽笛の音がし、急いで貨物列車のところへ行ったが、乗り口が高くて肩が効かない私には乗れないので、満人に頼み乗せてもらった。あまりのことで直ぐ寝込み目が覚めると北安に着いており、誰もいなかった。

北安に着いて二、三日後、ソ連軍が到着し、捕虜となった。収容所は野戦倉庫の敷地で、軍人と開拓団の婦女子でゴッタがえしであった。我々軍人は、北安から黒河まで徒歩で逆送され、野宿で寒さと雨と風で多くの兵士が死亡した。

黒河の対岸ブラコエチンスクへ渡り、貨物列車で南下し、エジベストコーガヤ近郊の山林の中の収容所で生活した抑留中は、山林伐採、線路工夫などが主な作業で、ノルマ制は伐採で、身体障害者のためノルマが達成出来ず、食事があまりにも少なく栄養失調となり、昭和二十二年九月、帰国できました。


経歴
1926(大正15)年5月生まれ

1945(昭和19)年3月
奉天で就職していたところ現地召集となる。(現役 19歳)
123師団 輜重兵 第123連隊 (満州 孫呉)

1945(昭和20)8月
ソ連参戦
戦車への飛び込み特攻にそなえる
一人残され北安へ南下するも捕まる

 同 9月
黒河へ徒歩で北上
黒河→アムール州ブラゴウエシチエンスク→イズベストコーワヤの収容所に抑留 伐採作業など

1947(昭和22)年 9月 復員


●『第123師団(松風)』
1945年8月11日、アムール川を渡河しソ連軍が満州に侵攻した。
第123師団は独立混成第135旅団と共に、?琿及び孫呉の陣地において
ソ連軍の侵攻を食い止め、総攻撃を受ける前に終戦となる。


●『第123師団 輜重兵第123連隊』
通称号 松風 15208
編成地 北満州 孫呉
編成時期 1945年 1月
終戦時の所在地 北満州 孫呉
関東軍編成  師団は孫呉地区の既設陣地を利用して停戦まで敢闘。
連隊長阿部少佐は停戦後、北安方面へ脱出中戦死。


●『シベリア日本軍捕虜抑留の極秘指令』
日本が無条件降伏を表明してから8日後の8月23日、スターリンの名で出された「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」という極秘指令

この極秘指令に従って、8月末には満州、北朝鮮、樺太、千島の中間集結地に武装解除・集結させられていた、日本軍将兵を含むおよそ64万人の日本人がシベリア各地にある強制収容所へ捕虜としてシベリアなどへ連行されて、過酷な労働を強制した。

「捕虜50万人」計画に対し、実際には60万人と超過達成したため、配置計画も予定地に加えて、マダカン、ヤクーツク、ナリリスクなどの極北地域、ラウル地方、モスクワ周辺、カフカス地方、キルギス、モンゴルなどに広が
った。

  異国の地での厳寒・飢餓・重労働に耐えられず命を落とした日本人犠牲者は
  6万人を超える。
  (ユーラシア.ブックレット潤・5シベリア抑留いま問われるものより引用