戦友(とも)よ、語ってから死のう。その10 硫黄島 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その10 硫黄島

10 大曲 覚 さん 87歳

海軍/1943(昭和18)年10月1日 飛行機整備科・海軍予備学生/硫黄島

硫黄島 
  戦死者の臓物を被服に付け
          死体のふり


太平洋戦争中、戦略の要点であった海洋の島々は「不沈空母」と呼ばれていた。
硫黄島はこの名に最もふさわしい島であった。東西幅の広い所で4キロ、南北8キロ、周囲17・8キロ、これは箱根の芦ノ湖と同じで、真青な海上にポツンと浮かぶ姿はまさに白波を蹴って走る「不沈空母」と呼ばれ、日米双方にとって最も重要な島であった。

米軍はこの小島に上陸前三日間、三百の艦船から三十分間に八千発の射撃と数千トンの空爆、夜は昼間のように明るく証明弾を何千発と打ち上げ万全の警戒体制をとった。

島がゆれにゆれ、あまりの凄さに島を占領するのではなく、島ごと海中に沈めにきたのかと思った。
この戦場で最も悲惨で人間性を無視したのは、戦車への肉薄攻撃であった。

三月八日、海軍側の総攻撃で道に迷い、西戦車連隊の本部壕に紛れ込んでしまった。
その時、西連隊長から総攻撃を中止しろとの栗林兵団長から命令が下ったと知らされた。
この説得で航空隊の兵二百名程合流し戦車隊の指揮に入った。

西連隊長(中佐)はロスアンゼルスのオリンピックの大会で馬術障害の金メダルを取った西竹一中佐。私はその後、西中佐が自決する寸前まで行動を共にした。

この戦場で最も非人間的で悲惨であったのは、M四戦車に対する肉薄攻撃であった。
明日、戦車が攻撃して来ると予想される地点に三、四名一組として、五、六組毎夜出撃した。

明け方四時頃までに指定地に着き、その付近に散乱している友軍の戦死者七、八名をかき集めて、戦死者の腹を裂き、臓物を取出し、自分の上衣のボタンをはずして胸のあたりに押し込み、またズボンの破れた部分から押し込んだ。
死体群の中に入ってあたかも自分が戦死者のように偽装した。


死者のギョロッとむき出した目の視線が鋭い矢になって皮膚を貫き、肉を裂き、骨を刺すのを感じた。その矢は幾千、幾万本にも感じられた。私は歯をくいしばってこの非人的で残忍な行動の汚辱感と戦いながら冷静さを失うまいと必死だった。

段々と意識が混濁して生きているのか死んでいるのかわからなくなった。
ふと首筋や顔を這い廻るウジ虫で我に返り、臓物を取り出された戦死者の身が明日の我が身か、戦死してもまだ死体となって戦闘を続けなければならぬとは、あ!これが戦場かと心の中で呪った。
作戦自体末期的兆候だ。

● 硫黄島攻防戦~日本本土空襲のB29の中継基地化を阻む激戦~
米陸軍は日本本土への戦略爆撃の効果から硫黄島攻略の意義を唱え、「硫黄島攻略後に沖縄上陸」という基本戦略が秋の日本本土への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。

これを受けて、1945(昭和20)年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、 空母機と艦艇の砲撃の支援のもと開始された。
 
3月17日、激しい戦闘の後にアメリカ軍が島を制圧し、日本軍守備隊陣地の 多くが壊滅した。

3月21日に大本営は17日に玉砕したと発表。その後も、生き残りの日本兵か ら散発的に抵抗は続き、3月26日、栗林忠通大将以下300名余りが最後の攻 撃で壊滅し,これにより組織的戦闘は終結した。

沖縄を主戦場として、日本軍に増援や救援の計画は当初よりなく、2万129名までが戦死した。これは損耗率にして96%にのぼる。

一方、アメリカ軍の戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を 受けた。
太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷 者数の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。
(硫黄島の米軍制圧図略)


略歴  
1922(大正11)年6月生まれ

1943(昭和18)年10月
21歳の時、海軍予備学生として海軍、飛行機整備科に入隊。
南方諸島飛行隊に所属。玉砕の島硫黄島へ。
米軍上陸に備え島中に、蛸壺、トーチカ作りに従事する。

1945(昭和20)年3月18日
米軍、硫黄島に上陸、日本軍は総攻撃を受け、わずか数日で2万余の日本 
軍は大半が戦死、壊滅状態に陥る。
部落間の連絡も途絶える中で、ばらばらの突撃(万歳突撃)

生き残った兵隊は島内にはりめぐらした横穴壕に隠れはしたが、水、食料もなく、人減らしも狙って2~3人づつ切り込み隊として壕を追われた。
食べ物を求めて戦場に散乱する米軍の野戦食で飢えを凌いだ。

壕に米軍は水、ガスを注ぎ日本兵をいぶり出した。
米軍に降伏しても殺されるかもしれないが、助かるかもしれないと思い、壕を出て投降をを呼び掛ける米軍に投降した。

以後、硫黄島から捕虜としてグアム島をはじめ、ハワイ、サンフランシスコ、等アメリカ各地の収容所を転々とする。

1946(昭和21)年帰国

『海軍予備学生』

1943(昭和18)年11月、海軍機搭乗員となる飛行科予備士官を平時より養成、温存して有事に備えるため、海軍予備学生制度を設立した。

旧制高等学校・旧制専門学校卒業以上の学歴を有する者が、これに採用された、一年間の搭乗員教育の後に海軍少尉(海軍予備員たる)に任官させ予備役に編入、帰郷させるシステムであった。

1938(昭和13)年に整備科が開設。
さらに太平洋戦争開戦直前には一般 兵科にも拡張され、飛行科、整備科も一括して海軍予備学生と改称された。

修得した学術分野に制服はなく,第1期兵科予備学生は1942(昭和17)年1月、基礎教育のため海兵団へ入団。
次いで陸戦、対空、通信、特信(海外通信の暗号解読)、気象、対潜等に分かれ、各種術科学校で専門の学術技能を修めた。

通計1年の教育後海軍少尉(海軍予備員たる)に任命されたのは飛行科、整備科と共通である。

予備学生の身分は、少尉候補生に準じており、この点、兵から始まる陸軍の幹部候補生と異なっている。

1943(昭和18)年以降、学徒動員で予備学生の?募は急激となり、前期・後期に分かれ、かつ教育機関は11ヶ月間に短縮。

海軍予備学生出身者と合わせ、予備士官の数は終戦時には全士官数の54%を占めた。