戦友(とも)よ、語ってから死のう。その9 ルソン島 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その9 ルソン島

9 井口 光雄 さん 86歳

陸軍/1943(昭和18)年12月 学徒召集/ルソン島/歩兵

ルソン島 
  行き倒れた水牛の生き血に
         命を救われる


「米軍ルソン島上陸」の報に、軍の主力は北部ルソンへ移動を開始した。
マニラ近郊で陣地構築に従事していた教育隊も、四百キロの道程を十日間で北上するのです。

食糧も車輌もなく、夕方出発して夜通し歩き、明け方到着したところで現地民の家へ押入り、田畑を荒らして食べ、そのまま熟睡するのです。要領のよい元気者はうまくやるのですが、私などは食べ物が見つからず絶えず飢えており、五日目には宿営地に着いた朝、ついに道端に倒れ、自決しようとしたが、手榴弾は発火
させる力も残っていませんでした。

六十キロもある機関銃を背負わされてきた水牛も、酷使に耐えられず、私の近くでバタリと倒れました。
即死です。
すると、誰の知恵か、逃げ遅れた現地民を連れて来て、「水牛の頭をやるから解体しろ」と命じたのです。

彼らはまず馬穴をあてがって頚を切り、血液を抜き取りました。
お碗に血を掬ってかたわらに倒れていた私に飲めと言うのです。むっとする血潮など飲めるはずもないのに、なぜか無意識に飲み干すとまた注いでくれます。
飯盒を取ってこれにも一杯つめてくれました。

夕方、目が覚めると何となく体が軽い。飯盒を開けてチーズ状になった血液を食べました。
もちろん、あの水牛の肉も仲間が分けてくれ、元気を取戻して目的地へ到着しました。

しかし、この行軍で十数人の仲間が死にました。
私は神の心を持つ現地人に救われたのです。

二月末、教育隊を卒業して、米軍上陸以来、激戦を続ける旭兵団に配属され、直ちに機関銃小隊長として米軍と銃砲撃戦に突入しました。
このルートからの突進が難しいとみた米軍は、他のルートに迂回、我々もまたその前面に立ちはだかり、戦車を連ねて来る米軍に二度三度と挑みました。

多大なる犠牲をはらいながら、ついに重要拠点バギオ撤退の命が下りました。
我が小隊も半数以上の損害を出して撤退の途中、行き会った曹長が、「赤ん坊を背負った女が山から降りて来て、チラッと我々を見て行った。これは危ないと、山の反対側へ廻ったら案の定、元の場所がバンバン砲撃された」と話して行きました。

隊長が女を殺させなかったのが不満のようでした。でも、日本軍は食糧、薬品から兵器さえ補給せず、兵隊だけ七十万人近く送り込みました。
そのフィリピンは食料の四割を輸入に頼っていたのです。

戦争は国土を荒廃させ、人心を荒ませます。負け戦は悲惨なもの。勝っても碌な事はない。
米国は朝鮮、ベトナム、イラクから今日まで若者を死なせ続けています。戦争は地獄です。
(写真・ルソン島戦闘図略)


略歴
1923(大正12)年7月 生まれ

1943(昭和13)年12月 陸軍東部歩兵第83部隊入営

1944(昭和19)年5月 前橋陸軍予備士官学校入校

同年 11月      ルソン島上陸 第14方面軍教育隊

1945(昭和20)1月     見習士官

1945(昭和20)年 3月第23師団」(旭)第71連隊第3機関銃中隊第1小隊長
バギオ市南西サント・トーマス山中腹にて米軍と戦闘

同年5月   第10中隊長代理、将校斥候として、アンタモックへ、小ブキアス占領、終戦 (少尉)

1947(昭和22)年1月復員


●『陸軍予備士官学校・方面軍教育隊』
日中戦争の泥沼化など戦局の拡大で、支障率の高い下級将校を戦時の間だけ一時的に増やす必要があった。

しかし陸軍士官学校出身n現役士官を増員することは限度があり、その代用ともいえる予備役将校となるべき者の養成が陸軍予備士官学校創設の目的である。

卒業者は見習士官を経て陸軍少尉に任官する点では陸軍士官学校と同じだが、少尉任官と同時に予備役に編入され、さらに同日招集され(あくまでも人事の書類上の手続きである)陸軍予備少尉になる点が異なる。

こうした手続きは、陸軍の本流である陸軍士官学校出身の現役将校との差別化を図るためで、予備役の肩書きが付く陸軍予備士官学校出身者は昇任、配属先などいろいろと格差があった。


●『歩兵第71連隊ーノモンハンとルソンの二つの悲劇』
通称号 旭1125  編成地 鹿児島  編成時期 明治41年5月
終戦時の上級部隊 第23師団  終戦時の所在地 ルソン島北部
 
ノモンハンでは激戦を重ね、壊滅状態となり、補充によって再建された。

その後、太平洋方面の戦局悪化から、1944(昭和19)年台湾派遣が決まったが、派遣先がフイリッピンに変わり、、12月にフイリッピンのルソン島へ進出して第14方面軍隷下となる。       

1945(昭和20)年1月からのルソン島の戦いではリンガエン湾沿岸に配備され、揚陸する米軍と交戦、3月頃から飢餓状態に陥り、ボゴド陣地に後退して防御戦闘の最中に終戦となる。

ルソン島の戦闘に参加した将兵で生還出来たのは僅かである。

● 太平洋戦争前夜からの経由
1940(昭和15)年8月第4師団から第25師団に所属変更。
ジャムスに集結。9月錦州に移駐。」11月林口に移駐

1944(昭和19)年12月フイリッピンマニラ上陸

1945(昭和20)4月 連隊主力はバギオに移動、アメリカ軍と交戦。
  
6月食料・兵器も尽きかけた状態でブロク山カバヤ高原に集結。8月終戦。
  
9月13日ボンドック街道52? 地点でアメリカ軍に投降。
  
連隊の勢力は患者も含めて 609人であった。