戦友(とも)よ、語ってから死のう。その8 レイテ島 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その8 レイテ島

8 島田 殖壬 さん 83歳

陸軍/1944(昭和19)年3月20日 志願/歩兵/レイテ島


レイテ島 泥田、
こんな惨めな死に方はしたくないと言いながら
               皆死んでいった



私は昭和十九年三月二十日、現役志願兵として、当時十八歳で東部六部隊に入隊し、十日余りで満州国孫呉の歩兵第一連隊で教育を受け、一期が終わる七月に第一師団動員令のもと、南方行きとなりました。

当時、行き先はまったくわからず、中国・上海から船に乗り、南下し、フィリピン・ラボックで原口大隊は上陸。
マニラを目指し、私の小隊は船でマニラ港に十月下旬に着き、上陸しました。

その頃、米軍がレイテ島に上陸して来て、守備隊の十六師団は全滅したそうです。
十月三十一日、第一師団は決戦師団としてレイテ島に急ぎました。

当時、私たち兵隊は、実戦経験がない現役の兵ばかりでしたから、船上でレイテ島がどんな島かもわからず、一週間もすればまたマニラに帰って来られると気楽に話していました。

十一月一日、オルモック港に上陸。三日進軍開始。
昼ころ、P38戦闘機の空襲、機銃掃射で私は右肩を負傷。
戦友からは不運な兵と言われながら行軍し、部隊がピナ山に登るとき、麓のロノイという部落に一人残され、小隊全員の背嚢を管理しているよう命令され、心細い限りです。

リモン峠方面の戦闘が激しくなり、歩兵第一連隊は下山を命ぜられ山から帰って来ましたが、また残され、後に私が前線に行くころは、戦場は死骸ばかりの有様。
死体は蒸し暑さのため、一週間もすると白骨化してしまいます。
後日、師団の土居参謀が「砲弾と肉弾との戦いでは、兵がいくらいても勝てる訳がない」と言うほど、砲弾が激しく落下してきます。

私と増田(満州以来の戦友)が斥候に出たとき、道路向こうに米兵が上半身裸で作業をしている。距離は二十メートルくらい。
二人で目配せして銃で射ち、当たったので大騒ぎとなり、反撃され増田は頭に一発。
即死し、私は這って密林に飛び込み、走りました。銃弾がバシバシと体を掠めていき、やっと小隊に戻り報
告。
明日はこちらに来ると思っていました。

その日の夕方、ガサガサと音がするので木の影から見ると、米兵の斥候が五~六名、目の前に来ていて、目が合った瞬間、カービン銃で撃ってきました。
三八銃では一発。
後が間に合わず、手榴弾を一発投げ、伏せていると手榴弾五~六発が飛んできて、隣にいた兵二名が戦死し、敵は退いていきました。

数日後、師団は西海岸へ転進命令が来て、リモン峠を去り、カンキポットを目指し夜、行軍。食糧はなく、皆ふらふらの状態で、途中倒れて亡くなる兵も多数でる有様。
二千五百余人の歩兵第一連隊の兵も、リモン他で二千二百名くらい戦死。
三百余りが西海岸へ。内七十一名がセブ島へ転進。その後、セブの戦闘で三十四名戦死。
生還者は三十七名でした。
レイテ残留者は全員戦死しました。
(地図、写真、第一師団戦死者リスト略)

経歴
1925(大正14)年10月生まれ

1944(昭和19)年3月 志願 第1師団(通称 玉)歩兵第1に入隊連隊 

同 10月船舶輸送でフイリッピンマニラ着
     船舶輸送でレイテ島作戦参加

同 12月末レイテ島からセブ島転進

1945(昭和20)年 1月~8月 セブ島作戦 8月28日 米軍と停戦

1945(昭和20)年11月末レイテ島タクロバンより横須賀港帰還 復員


●『歩兵第一連隊~満州からレイテへそして全滅……』
通称号 玉5914 調整池 東京  編成 明治7年11月
終戦時の上級部隊 第1師団  終戦時の所在地 セブ島(フイリッピン)

日米開戦後も連隊は満州でソ満国境警備に当たっていたが、1944(昭和14)年南方転進を命じられて第2大隊を覗く将兵が10月20日上海からフイリッピン・レイテ島へ向かって出港した。 

ちょうどこの日、マッカーサー将軍が米軍部隊を率いてレイテ島に上陸した。

連隊は決戦部隊としてフイリッピンに派遣され、11月1日オルモックに上陸した。
連隊は最初オルモック東部の山脈に向けて前進を開始するが、北部のリモンに進出していた第1師団主力と合流するために転進して、この方面の戦闘に参加した。

連隊正面の米軍はおよそ2個師団の兵力を有していた。
連隊はこれと攻防を繰り返し、少なからず米軍を撃退し、米軍の進撃を食い止めた。

この時の連隊の防衛ぶりを米兵たちは「山下ライン」と呼んで賞賛したという。

しかし、この間前線への食糧の供給は途絶、逆上陸時にはおよそ20日分のを携行していたが、すでに尽きていた。

それでも米軍に一歩も引かず健闘したが、兵力の消耗は烈しく、上陸時2500名から350名になっていた。

米軍との激戦に末にはリモンを撤退して、西部のカギポット山系に集結。
ここからレイテ島の西海岸に進み、地号作戦と称する第1師団の撤退作戦にて20年1月レイテ島から脱出してセブ島に渡った。

しかし、連隊の中で脱出できたのは連隊長以下72名のみ、レイテ島に残った者はその後消息を絶った。

セブ島でも米軍に対する遊撃を行ったが,終戦を迎えた。この時生存者は僅か37名。
(別冊歴史読本 地域別日本連隊総覧 新人往来社より引用)