戦友(とも)よ、語ってから死のう。その7 レイテ沖海戦 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その7 レイテ沖海戦

7 内田 宇吉 さん 84歳

海軍/1944(昭和19)年2月 志願/水兵(水測)/駆逐艦『潮』/レイテ沖戦

レイテ沖海戦。 駆逐艦が爆発、
         死体は手、指、顔が白蝋のように


私は群馬の内田です。
昭和十九年二月、十九歳の時、志願兵で海軍に入りました。
九月二十日、横須賀久里浜の対潜学校を卒え、同期の工藤君(十五歳)と駆逐艦「潮」に乗艦すべく瀬戸内海に向かい、二十九日に柱島沖で乗艦しました。
乗組員は三百二十名。二千三百トンの優秀な艦でした。

十月十四日、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻で南方へ向けて出撃する。
そして艦長より訓示。
「我が艦隊はフィリピン・レイテ湾に向い、米艦隊と決戦する。この戦いに敗れば、我が国はこの戦争に勝てない」と言われた。
馬公で燃料補給してレイテ湾に向け猛進する。

日本艦隊の主力はボルネオより北上する「武蔵」「大和」以下の栗田艦隊と「山城」「扶桑」以下の西村艦隊。
私たちの志摩艦隊は、この西村艦隊と合同してレイテ湾へ突き進む。
それと、内地より空母四隻・戦艦二隻を主力とする小沢艦隊。
文字通り、日本艦隊の全力を挙げた戦いだった。

二十四日真夜中、先行した西村艦隊がスリガオ海峡で米艦隊の砲撃を受け、駆逐艦一隻を残し全滅。
真っ暗な前方二万メートルで「山城」と「扶桑」が真っ赤な火を吹きあげて燃えている。
この戦いで、西村艦隊の戦死者は六千名以上と思われる。

また、この戦いで軽巡「阿武隈」が被弾し、九ノットで避退した。
「潮」は「阿武隈」を護衛して帰る途中、B24二十機に襲われた。
「阿武隈」は爆弾数発が命中、大火災で沈没。
乗組員七百五十名中三百名余りを救助してマニラへ。

十月三十一日、陸軍・玉兵団を満載した輸送船四隻を護衛してレイテ・オルモック湾へ。
兵員弾薬の揚陸中、敵大型機が襲ってきた。
至近弾で「潮」の魚雷頭部へ弾片が命中、燃え出した。
急ぎ、これを投げ捨てて無事。

十一月五日、マニラ湾空襲。姉妹艦「曙」が被弾。戦死傷者多数。

十一月八日、陸軍・泉兵団をオルモックへ護送。
またも大混戦。
私は中部機銃の弾込めの応援。
頭上に敵機の居ない時だけ気持ちが少し安らぐ。
この時、三千メートルくらい向こうにいた輸送船にB25が三機襲いかかった。
マストに触れんばかりの低空で爆撃。
水煙の消えたとき船は見えず。
轟沈だ。この船にも陸兵二千名は乗船していたであろう。

十一月十三日、マニラ湾空襲。湾内に二十隻くらいの軍艦、商船がいた。
上空は敵機のみ。
八時半頃、右上空より襲われ、右舷二、三メートルに爆弾が海底で爆発。
海水が滝のよう。
下から猛烈な蒸気で暑い。

午後四時頃まで敵機は去らず。夕刻、空襲も終わり、機関科二十三名の遺体をあげる。
なんと遺体の手、指、顔は小さく細く、白蝋のようだ。高温高圧の蒸気に二、三分吹かれると人体はこのようになってしまうのか。

以後、「潮」は片舷航海だった。
この夜、マニラ出発。シンガポールで応急修理し、昭和二十年一月十四日、日本へ帰る。

戦後の記録によると、一番多く使われる級(クラス)の駆逐艦が日本に百隻あり、終戦時に残っていたのは三隻のみで90隻以上が沈没した。
「潮」の戦死者は四十三名だった。

最後に一言。戦争はその勝敗の如何を問わず、人類最大の愚行なり。
(写真・レイテ沖海戦図略)


略歴
1925(大正14)年7月
1943(昭和13)年2月海軍機雷学校入学(19歳)
同年」9月 駆逐艦 『潮』乗組員(第5艦隊)
1945(昭和20)年8月28日 復員


馬公
日本は、日清戦争で獲得した台湾に進駐するにあたり、海軍は大陸に近い澎湖諸島馬公湾に要港を置いた。上海・青島に北上する欧米の船舶を監視するには、台湾海峡に立ちはだかる馬公は好都合であった。
台湾に軍事開発が推進されるようになると、昭和18年4月を持って警備府を利便性の高い台湾の高尾に移し、馬公には馬公方面特別根拠地隊司令部が置かれた。


駆逐艦『潮』
『潮』は吹雪型(特型)の20番艦(特?型の10番艦)である。
1929(昭和4)年起工。浦賀船梁で建造。一等駆逐艦。第7艦隊に編入。

上海事変において長江水域の作戦に参加。

日中戦争に際しては上海、杭州湾上陸作戦、仏印の作戦に参加。

太平洋戦争では、南方侵攻作戦に参加。

1944年10月22日から25日にかけてのレイテ沖海戦に参加し、海上護衛・輸送作戦に従事。
11月13日、マニラ湾で空襲を受け損傷。右航傾。(この空襲で軽巡木曽と駆逐艦4隻が沈没)。
12月7日に応急修理が完了し内地に回航された。横須賀に帰投し、主機損傷のためそのまま係留され、行動不能の状態で終戦を迎えた。

駆逐艦は、もともとの名前を水雷艇駆逐艦と呼び、19世紀末に出現した艦種で水雷艇を駆逐する艦種であった。第二次世界大戦までは魚雷を主兵装とし、駆逐艦隊は別名水雷艦隊と呼ばれた。