戦友(とも)よ、語ってから死のう。その5 ガダルカナル強制上陸 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。その5 ガダルカナル強制上陸

5 佐藤 敏雄 さん 89歳

陸軍/1940(昭和15)年12月1日 現役/香港~マレー半島侵攻/歩兵(旗護兵)


   ガダルカナルへ 
       270機の空爆に囲まれて強制上陸


ガタルカナル島の前後

ただ今紹介されましたとおり、太平洋戦争開戦前より所謂野戦に居り、ホンコンの開戦十二月八日、戦勝入場式。

次いでスマトラ島パレンバンの落下傘部隊支援。

次いでカンテイ作戦又はその後の休養訓練の期間を与えられましたが、現役兵を長く遊ばせておく筈もなく、
つまり当時陸軍が苦戦している所は、マレーのマンダレーか、南方の英語の島であると告げられ、其のいずれかの命令が出るまで輸送船上の人として毎日南瓜、南瓜のおかずで遊弋待機したが、
なんとなくマンダレーよりまだ激戦地で、生きて帰れないように感ぜられ、
夜甲板上で内地より持ってきたお守りを拝み、武運長久を祈り、父母妹たちに達者でなーと語りかけた。

その後まもなく、進行目的は、ガタルカナル島と明示され、南下をはじめ、急に周辺は殺気立って来た。
先ずはニュウブリテン島ラバウルへ到着した。

ラバウルに着いた船団は確か数隻だったが、其の船を別れ、新造船に乗り換え、
またまた、洋上乗り換え、普段だったら二千人は乗せる一万三千トンの広川丸は10分の1の200人。

つまり連隊本部、連隊砲、通信隊だけ。
積荷も揚上陸用機材と少量の食料弾薬のみ。
つまり極力船足を軽く、連隊長と軍旗は当然船橋の高いところ目まぐるしく出る命令、大声の号令指示のなか、広川丸は島影に隠れ敵機を避け夜を明かし、緊張の連続であったが、十三日の金曜日は外人の忌み嫌う日だから、其の日を選んで侵攻するだろうと我々は想像しあっていた。

一応は出航したが引き返し、島影に、行き詰る雰囲気のなか、十四日各島影から急速に集合南進する我が陸軍は十一隻、護衛駆逐艦は二十五隻合計三十六隻が白波を全速南下する様は、流石大本営直轄作戦は凄い。

これなら必ず勝つ、私は裸から軍装を整え加給品のタバコを隊内に分けていた。

甲板へ出てはいけない!との命令が喧しく放たれているなかーー全く凄まじい落下音、炸裂音、爆弾命中である!!

悲鳴、痛いよう!、一面の火災、
私は小学校の広瀬中佐、木口古兵の『死んでもラッパを放しませんでした』を瞬時に思い、
俺は旗護兵!軍旗と共に!軍旗!船倉から軍旗の有る船橋は、甲板も火の海で大破壊黒煙で目も見えない。

ようよう辿り着くと聯隊長は一人で、しかも顔面負傷しているが、連隊旗手はどうしたか?
戦死とわかり、他の海上は敵航空隊の大空襲、魚雷爆弾銃撃!!

十月十四日午前十一時四十分、ラッセル島北北西二十海里敵機延べ二百四十機の猛攻で、わが船は沈没航行不能、広川丸と外一隻のみ翌朝ガ島に到着、軍旗も我々は勿論飛び降りてガ島の人となった。

戦争は勿論もうやってはいけない。
がしかし体力気力忍耐は平和主義の美名にかくれて鍛える場、時間を作らねばならない
(32師団の防御配置参考図 略)


略歴
1920(大正9)年7月生まれ
1940(昭和15)年12月第1乙種合格 38師団 中部第4部隊歩兵(229連隊第3大隊第11中隊所属)

1941(昭和16)年12月8日日米開戦 香港攻略線に参戦。

1942(昭和17)年1月中旬 
シンガポール沖を通過、ムシ川を渡ってパレンバンに上陸。
パレンバン空挺部隊降下の支援。
オランダ軍との戦闘。同時期、連隊旗手旗護兵になる。

同年9月頃 
ガダルカナル奪回のために派遣。11隻の大型輸送船と護衛艦25隻に護られて、重火器、食料、1万人の兵士をガダルカナルに投入のため輸送。

同年10月14日 12時40分~
ラッセル島、北北東20海里で米軍の240機の艦載機の攻撃を受け、輸送艦6赤沈没。1隻中波離脱。
乗っていた船も爆弾を受け、旗手が死亡したことが確認され、軍機を持つことに。
被弾していたが、乗っていた輸送船と残り3隻はガダルカナル島に強行接岸。
海岸に乗り上げ座礁、炎上。
貴重な食料、重火器は揚陸されたが,次々に来る米軍機の攻撃で大半は炎上、散失。

以後はジャングルに逃げ込み飢えに苦しむ。

米軍機の機銃掃射で足を負傷。野戦病院に相当する連絡所に収容さる。
やがて海軍の船に乗って、陸路の反対側から上陸して米軍キヤンプに切り込みをかけるので、1キロ離れた海岸に集合の命令がかかる。
1キロのジャングルを歩くのは空腹で倒れる者も続出。

小舟が来て、海軍駆逐艦に拾われてブーゲンビル島に到着。
撤退のための作戦だったことに気づく。
その後ラバウルに移動。しばらくとどまる。

内地帰還命令。記録を大本営に持って行くこと、遺骨を日本に持ち帰ることが任務。帰還。
報告後すぐラバウルに戻ることに。
船が不足しており、第一次大戦のドイツから捕獲した老朽船(9ノットしかない)に乗ってラバウルに戻る。
1945(昭和20)年8月15日ラバウルにて敗戦を迎える