戦友(とも)よ、語ってから死のう。 その3 中国苦力 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。 その3 中国苦力

○3佐藤 貞 さん 88歳
陸軍/1944(昭和19)年4月 応召/中国・中支/通信兵(無通手)

中国 苦力(クーリー)狩り、
     返してと泣き叫ぶ妻子を追い払う


拉致連行された苦力(クーリー)
私は昭和十九年から二十年にかけて中国の中支、南支で強制拉致した苦力に食料や炊事道具を運ばせて行軍しました。
天秤がたわむほどの重い荷を担がされた苦力は、連日の強行軍に履物も擦り切れて裸足の者もいました。
苦力は捕まった時のままの姿ですから、別の履物を探すことも出来なかったのです。
 
苦力をどうやって捕まえるのでしょうか。

物資挑発で部落を急襲した時、捕まえた男達に荷物を担がせて人間共々、徴発してしまうのです。
またある町を出発する前の夜に班長が四、五名の苦力を何処からか連れてきました。
恐らく警備隊などが浮浪者狩りをして捕まえた男達を各隊に配分したものでしょう。
床屋、学生、農民などのみんな普通の良民でした。

翌朝、出発の時、兵のカーキ色と苦力の黒色とが半々の長い隊列に延びていました。
拉致された苦力の家族が泣き叫んで何処までもついて来ましたが、最後にはいなくなりました。
纏足の老婆の哀願する声が哀れでした。
進むにつれて道端に苦力の死骸が転々と転がっているようになりました。
力尽きた苦力の末路だそうです。

小休止していた私らの脇を大勢の苦力を連れた、よその部隊が通過したことがあります。
その時、一人の苦力が射殺されるのを見ました。
帰してくれとしきりに哀願していたようでした。
「よし帰れ」と言われたのか、喜んで十メートルほど行きましたが、後ろから撃たれて川原に倒れました。外の苦力への見せしめに殺したのでしょう。

また夜行軍中、松明をかかげた異様な苦力の行列を見たことがあります。
天秤がきしむほどの、何かの砲弾を下げた屈強な苦力達でした。
首から首、そして天秤にまで逃げられないように細引きが掛けられていました。
衣服には赤や青の識別用の布切れが縫いつけてありました。

彼らの同胞に撃ち込まれるかもしれない弾を苦力達は運ばされていたのです。
ある町にしばらく逗留することになって不要になった苦力達を解放したことがあります。
少しばかりの塩をもらって「謝々謝々」と帰りましたが、あの遠い故郷まで無事に帰るはずはありません。また苦力は日本軍の協力者として、同胞からも迫害されると聞きましたが、嘘であることを祈るばかりです。

略歴
1922(大正11)年2月生まれ
1944(昭和19)年4月応召 中支派遣鯨6895部隊師団通信隊(40師団)
南京ー漢口ー武昌ー岳州ー長沙ー衝陽ー道県ー南雄ー楽昌ー曲江ー広東ー江門
江門ー広東ー慶州ー定南ーかん州ー南昌 敗戦 捕虜
南昌ー九江ー蕪湖(11月頃武装解除)ー馬鞍山ー南京ー上海
上海から駆逐艦「楠木」にて佐世保 復員 行軍距離約千里(4000?)

第40師団
通称 鯨  編成昭和14年6月 善通寺  終戦時 南昌
中国戦線の治安維持を目的として新設。中支方面に展開する第11軍の指揮下で警備に当たる。一方、中支での主要な作戦にも参加。宣昌作戦、予南作戦、第一次、二次長沙作戦に参加

1942(昭和17)年 4月ドウリットル東京空襲、B29が中国の飛行場に着陸。米機の着陸した飛行場を破壊するためのセッカン作戦の実施にあたり、師団は河野混成旅団、今井支隊を編成、作戦に参加。

1943(昭和18)年5月、師団の改編が行われ、第40師団は砲兵力を持たない丙師団となった。その後、師団は湘桂作戦に参加して南支に進出、作戦終結後広東に集結。

1945(昭和20)年6同地を引き払って南京方面に転進、その途中で終戦を迎える。


映画苦力(クーリー)とはインドや中国人の天秤棒で荷を担ぐ労働者のことで、奴隷の代わりのようなものです。
日本軍も重い荷を担いで、果てしなく遠い行軍をさせられていましたから、苦力を使ったのでしょう。
しかし、命の保障はなかったのです。
映画の世界の話のようですが、実際に体験された方の話ですから信頼性がありますね。