戦友(とも)よ、語ってから死のう。 その1 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

戦友(とも)よ、語ってから死のう。 その1

『戦友(とも)よ、語ってから死のう。』の呼びかけで、第3回「あの戦場体験を語り継ぐ老若の集いが、戦場体験放映保存の会、元兵士の会、孫の会主催で、9月17日、東京日比谷公会堂で開かれ、80歳~95歳の18人の元兵士らが悲惨な戦場体験を語り、800人の参加者は熱心に聞き入りました。

その発表された体験者の証言をご紹介いたします

○1. 室井 幸吉 さん95歳 
陸軍/1938年(昭和13年)現役/輜重兵、工兵~船舶兵/北支、南方

日中戦争参加 見渡すかぎり自軍の屍、敵討ちで部落を掃討

兵士は弾が尽きても戦って死に、
          敵討ちと部落を掃討した


戦争!それは一口で語り尽くせるものでありません。
戦争を憎しむ心は従軍中を含め、現在も変わっておらず、益々その心境は増加するばかりです。

北支山東省の最前線、15名ぐらいの分隊単位で警備隊が居りました。
一番近くの中隊からも、小隊からも、20キロ近く離れていた。
300名以上の敵襲を受け苦戦の無電に、我が自動車隊に救援命令。
歩兵30名を乗せ急行。
到着!!無残なり、分隊は全滅。
小銃など兵器既になく、空の薬莢がうず高く未だに熱く積もるばかり。
その側に血にまみれた兵士の姿。

敵討ちと歩兵部隊は前進。
30分後、敵影なしと帰隊。
その帰隊した兵士らが分隊近くの部落を徹底に掃討と称し、民家を荒らす。
金目の物は個人で徴発。
部落民は自国兵が来ても日本軍の掃討戦にも、めぼしい物はなし。
彼等が帰宅した暁、我が家をどう見るのか。
日本軍も前線の兵は、こうして救援もなく戦死していった。

彼らは俘虜となる自由も与えられず、戦陣訓という厳しい掟に縛られ、弾丸が尽きても戦って死んだ。
掟を作った東条らは生き永らえて絞首刑となったが、戦陣訓という掟に兵を縛り、死においやった罪は免れることは出来ない。
掟によって止むを得ず死んだ兵士らと彼は靖国に葬られており、それを参拝する議員達。
それらを総称して日本の右翼と云うのだろうか。

資料
経歴
1938(昭和13)年宇都宮輜重連隊に入隊、中国山西省にて第6旅団の輸送
1941(昭和16)年帰国 除隊
1943(昭和18)年3月 2回目の応召 独立第2連隊、工兵、湖北省
フイリッピン セブ島にて船舶兵、ケイデリオンにて玉砕直前パラオに移動
ー連隊本部がパラオからペリュリュー島へ 海上機動第一旅団隊 
パラオ大空襲経験。
44年9月ペリュリュー島米軍上陸、日本軍救援のため逆上陸の兵員輸送に従事。

通称 ー 照 1905年宇都宮で編成 終戦時パラオ諸島
所属歩兵連隊 第2(水戸)第15(高崎)第59(宇都宮)

大陸戦線
1937(昭和12)年廬溝橋事変が起こり日中戦争が始まると第14師団は北支戦線に参加。
保定作戦や山西作戦などに従事し、徐州会戦、武漢攻略作戦に呼応して行われた黄河北岸での陽動作戦などに参加した。

師団は14年末から15年初めにかけて帰国したが、1940(昭和15)年8月、満州に永久駐屯することとなり再び大陸に向けて出発した。

太平洋戦線
絶対国防圏防衛のため満州在駐師団が南方へ転用されることとなり、師団はパラオ諸島へ向かった。
転用の歳に大規模な改変が行われており、砲兵連隊・捜索連隊・工兵連隊・輜重兵連隊が解体されたかわりに各歩兵連隊が増強され、師団戦車隊や師団海上輸送隊が編合された海洋師団と呼ばれる編成になっている。
ただし、配備予定の機関砲中隊などは輸送途中で失われ、独立工兵第22連隊を改編した師団海上輸送隊も、合流できないまま西部ニューギニアで活動した。
師団は主力をパラオ本島に、歩兵第2連隊(およびその配下に編入された歩兵第15連隊第3大隊)をペリリュー島に、歩兵鯛59連隊第1大隊をアンガウル島に配備した。
ペリリュー島・アンガウル島の部隊は上陸したアメリカ軍と交戦して全滅した。
ペリリュー島への逆上陸を強行した歩兵第15連隊第2大隊も壊滅、パラオ本島に残る師団主力も地上戦はなかったものの空襲と飢餓で多くの損害を出しながら終戦を迎えた。


映画兵隊の辛かった戦地での思いがわかりますね
大本営のやり方に納得できてないようです
駒としか扱ってなかったように感じます
皆さんはどう思われますか?