玉砕突撃 サイパン戦組織的戦闘の終結 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

玉砕突撃 サイパン戦組織的戦闘の終結

7月6日
指揮官の自決後、総攻撃命令を受けた第43師団鈴木参謀長と連合艦隊から「早まるな!」の電報を受け、マッピ山で最後まで頑張るという海軍参謀との意見がぶつかった
海軍参謀と海軍一部は後退したが、ほとんど全員は総攻撃実施の決意だった

日没と共に、指揮官の遺骸を火葬し、地獄谷からマタンサに通じる道周辺に集結した
この頃、3週間スコールはなかった
米軍の上陸作戦が開始されてから一度もスコールがなかったのだ
しかし、7月に入り、少しずつ降るようになり、この日の夜からは充分なスコールがあった

「今になって降るとはな・・・」

「天は我々の最後にはなむけを送ってくれたのだろうか・・・」

集まっていた兵士も民間人も、みんな天を仰いで充分に喉を潤したのだった


下級兵士は、本当に地獄のなか戦わねばならなかった
戦場は、遥か南の小島である
充分な食料はあるはずがない
水は雨水を溜めるしかない
武器は弾の無い銃の先に銃剣を付けただけのものが多かった
あるのは手榴弾・・・

防衛線を死守せよ!との命令があれば肉弾戦
夜襲をするから突撃せよ!との命令あらば肉弾戦

強烈な火炎放射器や戦車、何万発もの砲撃の雨
夜は一晩中、昼のように照明弾が上がる
移動するだけでも体力は衰える

このような兵隊をよそに
高級参謀たちは指揮を出すだけで、毎日、洞窟で酒ばかり飲んでいた

タナパグで激戦中の海軍唐島隊に地獄谷へ集結との命令があった
唐島隊は地獄谷の洞窟に向った
途中の洞窟に立ち寄り、唐島隊の青木隆兵曹が見たものは
高級参謀達が酔っ払って怒鳴りあっている場面だった

青木隆兵曹は、たちまち軍刀を抜き、
「国賊野郎ども、兵が血まみれになって戦っているというのに、そのざまはなんだ。将兵全部に賜った酒を手前らだけで呑みやがって、この大事なときに酔い腐れていやがる。叩き斬ってやるから出て来い。」
その後、その洞窟はしんとなり静まり返った

戦争が終了してからの米軍談によると
指揮官が滞在したどの洞窟においても同じようだったようだ
洞窟の前には何千本もの酒やビールの空き瓶が転がっていたという

南雲中将や斉藤師団長はどうだったのだろうか
身体は痩せこけ、髭は伸び、疲れ果てて見るにも辛い様相をしていたという
先に自決された司令官達は、こえほど酷くはなかったと推察する


7月7日 

いよいよ

突撃時刻が迫っていた

この突撃に参加したのは、陸軍・海軍の生存者と警防団員・青年団員を交えた約3000人
武器の無いものは、竹に石を巻きつけたり、木に金具を取り付けたり、もうありとあらゆるものを武器とした

突撃は3隊に分かれた
海岸地帯を攻めあがるのは吉田参謀指揮の海軍部隊
中央を真っ直ぐ突破するのは鈴木参謀長指揮の陸軍部隊
山麓沿いにタナパグへ向かうのは平櫛参謀指揮の陸軍部隊

午前3時 

突撃部隊は兵隊を先頭にタナパグ米軍陣地に向け出発

午前5時10分に1キロ先の米軍第1線を突破した

米軍は前もって突撃を知っていたので、照明弾を打ち上げ、あたりは真昼のように明るかった
そしてあらゆる火器を撃ちまくった

しかし、死に物狂いの玉砕突撃は
撃っても撃っても
死人の上をどんどん押し寄せる突進に米軍は大混乱になった

空が明るくなってきたころ
第1線を突破した海岸線は、更に1キロ先の砲兵陣地に約400名が突入した
猛烈な戦闘が繰り広げられ、米軍は大砲を放棄して後退する

その後、米軍の援軍が到着して、進軍はここで止まった
夜が明けてからは米軍戦車が繰り出された
午後になっても激闘は続いたが、午後3時になって突撃隊は全滅した

この時の米軍の戦死409名、戦傷650名である
そしてこの甚大な損害は数字だけでなく、日本軍の死を恐れない戦意が米軍の兵士に与えた真理的影響はのちのちの戦いにおいて、かなり深刻であった

これが総突撃

これが玉砕突撃

またの名を「バンザイ突撃」


米軍資料によると
突撃は捕虜からの情報で知っていた
日本兵は捕虜になる事を嫌がっていたが、一旦、捕虜になると一変し、何でもペラペラ喋った
聞いてもいないことまでも喋ったため、米軍は大変不思議な思いをしたとある

日本兵の捕虜の話では、突撃参加者は約3000名で部隊の判明できたのは
歩兵第118連隊・歩兵第135連隊・歩兵第136連隊・43師団司令部・43師団野戦病院・独立山砲第3連隊・船舶工兵16連隊・海軍各種部隊といわれる

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しかし、米軍が遺体処理をする際、数えられた遺体は4311体であり、突撃以前の戦死者も含まれているとわ思うが、突撃時刻に間に合った日本兵が沢山加わったものと思われる
そして、その遺体は多いところで4重にも重なっていたという