地獄谷にて 最後の訣別電報・・・そして自決 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

地獄谷にて 最後の訣別電報・・・そして自決

7月4日 地獄谷の陸海合同司令部は、大本営に緊迫した戦局を報告した
「最後の抵抗線に関し努力するも、ついに利あらず。午後に至り、敵戦車は二二一高地西側地区から陣内に侵入、戦線錯綜し、乱戦と化す。」
「守備隊の戦力は、猛烈なる砲爆撃に遂日消耗し、今や敵戦車を支える一門の火器もなく、全員肉弾突撃を準備す。」
「守備隊は、飽くまで守地を固守し、あるいは挺進して敵中に突入し、最後まで敢闘す。通信の確保も、時間の問題となれり。」

この日の朝の司令部は猛烈な砲撃を受け、第31軍高級参謀伊藤盛逸大佐が戦死し、斉藤第43師団長までも破片にて負傷した

非難していた民間人は水不足・食料不足に陥っており、海没部隊や諸勤務部隊などの多数の非戦闘部隊とが混沌としており、このまま後退して戦闘を継続することは困難であった

司令部は決断した

7月7日早朝 最後の玉砕攻撃を行い、全員死をもって、太平洋の防波堤となることに決した

「南雲忠一中将よりサイパン島守備兵に与うる訓示」
サイパン島の皇軍将兵に告ぐ
 米軍進攻を企図してよりここに二旬余、全在島の陸海軍の将兵及び軍属は、よく協力一致、善戦敢闘、随所に皇軍の面目を発揮し、負荷の重任を完遂せんことを期せり。然るに、天の時を得ず、地の利を占むる能わず、人の和をもって今日に及びたるも、今や戦に資材なく、攻むるに砲類ことごとく破壊し戦友相次いで斃る。無念七生報復を誓うも、而も暴逆なる進攻依然たり。サイパンの一角を占有するといえども、熾烈なる砲撃下に散華するに過ぎず。今や止まるも死、進むも死、生死須らくその時を得て、帝国男子の真骨頂あり。今米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤として、サイパン島に骨を埋めんとす。
戦陣訓に曰く《生きて虜因の辱めを受けず。》
勇躍全力を尽くして、従容として悠久の大義に生きることを悦びとすべし。
ここに、将兵と共に聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念すべく、敵を索めて発進す。 続け!」
昭和十九年七月       南雲中将

この訓示に当時の心情の全てを物語っている

7月5日 軍旗奉焼
静岡の歩兵第118連隊・名古屋の歩兵第135連隊・岐阜の歩兵第136連隊の軍旗は地獄谷にて奉焼された

そして紙片に書かれた命令書は口伝えにより最後の突撃を承知した

命令書
1、米鬼の侵攻はいぜん熾烈なるも、諸隊本日までの敢闘努力は、よく真面目を発揮せり。
2、サイパン守備隊は、先に訓示せる所に随い、明後七日、米鬼を索めて攻勢に前進し、一人よく一〇人を斃し、以って全員玉砕せんとす。
3、諸隊は明後七日三三〇以降随時当面の敵を索めて攻撃に当たり、チャランカノアに向かい進撃し、米鬼を粉砕すべし。又、諸隊は明六日夜以降随時、特に選抜せる挺進部隊を敵陣内深く潜入せしめ、敵の司令部・幕営地・火砲・戦車・飛行機等を索めて徹底的にこれを粉砕すべし。
4、予は切に諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ、諸士と共に玉砕す。
               方面艦隊司令長官
               北マリアナ集団司令官

井桁軍参謀長は一五三〇決別電報を発電した
訣別電報

臣等微力にして
陛下の股肱を失いしかも任務を完了し得ざりしこと深く 陛下に御詫び申上ぐると共に、陛下の股肱は善戦各々死所を得たるを欣び、非戦闘員は支庁長をして、サイパン島北部に退避せしめ、最後の一兵まで陣地を死守玉砕せんとす。
然れども海没部隊諸勤務部隊等戦力なきもの極めて多数なりしは、戦闘を妨害せること大にして、指導上最も苦慮しあるところ、しかも決戦において、当兵団の所を得ざりしにあらずやを慮かる。
暗号書類その他の機密書類は、遺憾なく処置せり。将来の作戦に、制空権なきところ勝利なし。航空機の増産活躍を望みて止まず。
軍の精否は 一に指導官の如何による。大隊長以上の選定に留意を望み、皇軍の隆昌を祈りて、聖寿の万歳を唱う。

守備部隊は全力を尽くしたが利あらず、玉砕を決意して最後を迎えるとき、軍人として死生を超越し、ただ祈るは日本の将来だけという心境を綴った
住民に対しては、最後まで道連れにすることは考えず、生命を優先に対処する方針だった

一方、この日も米軍の攻撃は続いていた
タナパグ集落より一三五高地に攻め入る米軍だが、ここの守備隊は、たいした武器もなかったが、肉弾による抵抗が猛烈で、米軍戦車を先頭に突撃しても地雷により破壊し、ありとあらゆるものを武器として戦った

7月6日午前9時
南雲中将は連絡将校を各部隊に派遣して、訓示を伝達させた
そして、中部太平洋連合艦隊司令長官南雲忠一中将・第43師団長斉藤義次中将・第31軍参謀長井桁敬治少将・連合艦隊参謀長矢野英雄少将の4名は地獄谷司令部にて並んで自決した

東海岸のカラベラ峠を楽に進攻した米軍は、そこから北に続く断崖の中の洞窟を破壊した
すると700~800人の民間人が降伏した
この民間人や捕虜にした日本兵から7月7日早朝の総攻撃の情報が米軍に知れてしまう
そしてマタンサから北の端まで、いまだ多くの日本兵や民間人が移動するのを確認する

西側や高地付近では最終司令部である地獄谷の周りを依然強固に守備していた
地獄谷の南側の谷では火炎瓶と地雷で戦車を防ぎ、洞窟からの狙撃は脅威であった
この日、この谷で60人ほどの日本兵が手榴弾にて自決をした
これを見て驚いた米軍はこの谷を「腹切り谷」と呼んだが
日本兵達はここを極楽谷と呼んでいた

この谷に演習に来ていた海軍の唐島隊の兵隊が、谷の奥から冷たい水が湧いているのを見つけた
それを見た副官が「これはこれは極楽だ」と言ったのが始まりで
以後、日本兵の間では極楽谷と呼ばれた

この谷を最後まで守備していたのは信州長野の牛山隊であった
おそらく自決したのは牛山隊で、尚も最後まで射撃していたのは第18連隊であったと思われる
司令部地獄谷の裏側にあたるため、どんなに苦しくても、これ以上は引くに引けなかったのだ

最後の出撃命令を伝え、先立って自決された司令官のあとを追い、
第5根拠地隊司令官辻村武久少将・南洋庁マリアナ北部辻支丁長も自決し、野戦病院では数々の患者を懸命に処置していた病院長深山一孝軍医中尉も、ここまでと諦め自決すると、ついていた軍医や看護婦らも続いて自決をしていった