追い詰められたサイパン守備部隊 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

追い詰められたサイパン守備部隊

6月27日 タポチョ山を占領されたサイパン守備軍は、合同司令部により今後の方針を検討された

結論は住民を北方地区に退避させ、軍はタナパグ・二二一高地・タロホホを抵抗線とし、最後まで玉砕するまで戦闘することが決定された


歩兵第136連隊はチャチャ付近からドンニイ付近の攻防で大部分を失い、以後部隊は離散し掌握困難な状況であった

死の谷を強固に守備した歩兵第118連隊と河村大隊の残存兵は新防衛戦まで辿りついたが、もはや戦う戦力は無かった

歩兵第135連隊の生存者も後退してきたが、師団参謀が蛸壺を掘っておいたのでそこに陣を構えた

この135連隊はサイパン上陸後、このあたりを守備地とされていたため、地形に明るく、スムーズに後退できた

海軍・歩兵第18連隊・牛山隊はタナパグ付近で必死の抵抗を続けていた


このころまでは、守備隊の誰もが、連合艦隊の応援が来ると信じていた


一方、ナフタン地域で孤立していた佐々木大隊(独立混成第47旅団第317大隊)はアスリート飛行場を攻撃されてから、ずっと激戦の毎日であった

ここには、高射砲第25連隊第1中隊と工兵隊・海軍部隊の一部が一緒にいた

しかし、6月26日より米軍は高射砲の水平射撃と迫撃砲を洞窟直接射撃を開始した

この砲撃は威力があった

発見された日本兵の死体は黒ずんだ皮膚になっていた

また、西側海岸には3隻の艦船から艦砲射撃を撃ち込んだ

頑強に耐えていた佐々木隊だったが洞窟陣地も破壊され、降りしきる砲弾に大半が死傷し、それに加え食料と水不足のため、徐々に自滅に追い込まれる状況となった


6月27日 佐々木大隊長は七生報告を合言葉に突撃命令を出した

アスリート飛行場に進入し敵機を爆破して混乱させ、旧指令所まで移動する

負傷者は現地防御し、戦闘できない者は自決する


突撃作戦は成功したものと思われたが、旧司令所は既に移動しており、そこで米軍予備隊と遭遇した

接近戦となり体力の無い部隊は朝方には力尽き、遂には全員玉砕となった


7月2日 最終抵抗線にて司令部は大本営に対し

「守備部隊は、新防衛線において、全軍一致、最後の決戦を準備する」と報告した


7月3日 新防衛線に各部隊が全て到着したがタロホホでは136連隊が敵中に残され孤立した

離散して山頂沿いに後退が必要だったため、歩兵136連隊長小川雪松大佐は部下と共にタロホホに撤退した

米軍の包囲を突破して北進したが、翌朝、米軍1個連隊と遭遇した

激烈な射撃戦となり連隊長以下27名が壮絶な戦死を遂げた


米軍は二二一高地と電信山の占領を目指し猛攻撃にでた

日本軍守備隊は地雷を散布して防御したが、この日の夜は一夜で弾痕の山と化すほど集中砲火を浴びた


司令部は大本営に随時報告する

「熾烈なる砲撃及び爆撃に対し、毅然としてその守地を護らしめることは、精錬なる軍隊にしてはじめて期待できる。現地わが部隊の現状は、遺憾ながら離散・掌握を脱する者が極めて多い、相当兵力の軍隊にても、訓練が精到でない場合は、全く行方不明となった部隊さえあり、軍隊の練度及び幹部の掌握力等は、実に予想外なり。」