タポチョ山攻防 死の谷 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

タポチョ山攻防 死の谷

6月22日午前6時より米軍は第4海兵師団が東側を攻撃、対する日本軍は一九二高地南側で強固に守備をし確保していた

西側は米軍第2海兵師団が攻め上がり猛攻を加えてきたが、こちらも激闘し依然確保したまま日が暮れた


この夜、斉藤師団長はチャチャ付近の136連隊を二八六高地から三四三高地に増援し、砲兵はアスリート飛行場の米軍砲兵及び集結地に向け砲撃を加えた

また、テニアンからはチャランカノアの海岸に向け砲撃と爆撃機5機による爆撃をし撹乱した

一方、米軍はガラパン市外を徹底的に砲撃し、東側の第4海兵師団と西側の第2海兵師団の中央に第27歩兵師団を投入した


この時点の日本軍兵力は43師団9000人、旅団その他6000人であった

各部隊の隊長はすでに大部分が戦死しており、学校教官や通過中部隊の将校が補職されていた


6月23日早朝より米軍の攻撃は始まった

135連隊第3大隊・136連隊の守備する二八六高地は肉弾戦により夕方まで懸命に持ちこたえたが、遂に占領された

東側は戦車・砲爆撃の援護のもと、ラウラウ地区に進出し日本軍守備はチャチャ北側まで後退し、戦車対策を準備した

中央に第27歩兵師団を投入した米軍は一九二高地を攻撃したが、ここは峡谷にねっており、地形をうまく利用した日本軍は逆八陣地の要領で頑強に防御した

ここを守備したのは河村大隊・118連隊の生存者とその他の部隊を寄せ集めた混成部隊だった


夜になると日本軍は戦車11両で米軍を攻撃した

ほとんどは57ミリ対戦車砲とバズーガ砲により破壊されたが、1両だけ前線を突破し弾薬庫に火を放ち、米軍は後退させられた

この時の戦車は本来、ヤップ島に輸送される戦車でした

ガラパン港にて積荷準備中に米軍の上陸作戦が始まったため、そのまま整列されていたもので無傷であった




太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し-タポチョ山攻防

6月24日第27歩兵師団は再び一九二高地を目指して深い谷を進出してきたが、守備軍はことごとく撃退し1歩も前に進ませなかった

両側の高地や自然の山腹の洞窟に身を隠し、前進する米軍を正確に射撃した


第27歩兵師団長ラルフ・スミス少将は責任を問われ更迭された


この谷での攻防は30日まで続いた

米軍は火炎放射器を繰り出し、守備軍の洞窟を1個1個焼き払う作戦に出た

そして一方では回り道をして守備軍の後方より攻撃支援をし、戦車も送り出し、指揮官も交代した

この谷での死者は1000人といわれる


米軍はこの峡谷を 「死の谷」 とよんだ


日本の守備部隊である河村大隊と歩兵118連隊、ほかの戦車連隊や工兵隊の集成部隊は指揮官はすでに戦死しており、代理が指揮をとり、装備不足・疲労累積・指揮混乱でありながらも頑強に抵抗を続けた

このことはサイパン戦において最も巧妙であり、戦果も大きく、タポチョ山から非難する日本軍の離脱を有利に導いたのである



一方、西側は米軍第2海兵師団がガラパン・五根高地まで進出し、守備していた135連隊第2大隊・牛山隊・歩兵第50連隊第1大隊の生存者は後退するも、夜には夜襲を敢行し戦果をあげていた

しかし、肉薄攻撃のため兵力も激減していった

三四三高地はついに占領され、山頂周辺が次の戦場となった


6月25日米軍の進軍は遅くなかなか進めなかった

高地周辺には歩兵135連隊が守備しており、岩石が露出し、山の背は狭く、2メートルほどの芽が生い繁り、南側は斜面で樹木が密生していた


6月26日米軍は全力猛攻撃を展開した

タポチョ山頂の兵力はわずか180人程度だったが、山頂までの道中にて守備軍はよく踏ん張っていた


6月27日 タポチョ山頂を米軍が占領


サイパンでの戦いの天王山であるタポチョ攻防により、占領された日本軍は29日頃からタポチョ山北の小山で陣地を構築した


徐々に後退した日本軍に対して米軍は北上を続けた

歩兵第135連隊長鈴木栄助大佐は7月1日、後退途中に戦死



日本軍の陸海軍司令部は地獄谷に移された