第43師団 | 太平洋戦争の傷痕 次世代への橋渡し

第43師団

第43師団は1943年7月10日に編成され、名古屋地区の防衛と防空をしていました

その時の師団長は賀陽宮常憲王中将でしたが、1944年4月7日サイパン派遣が決定時には、皇室の師団長は近衛第3師団長に転任され、騎兵連隊長や軍馬補充本部長の経歴を持つ斉藤義次中将が替わって着任されました


これは危険な南島作戦には皇室人間は行かせられないということか・・・


絶対国防圏の守備として続々と南方に派遣したが、サイパンにおいての派遣は6月7日海没された118連隊の生存者が、裸同然の姿で上陸を果たし守備軍は全員揃いました

空襲が始まったのは6月11日ですから結果は最初からわかっていたことでしょう


☆第43師団司令部253名生還者4名:タポチョ山南側に司令部設置

師団長:斉藤義次中将 参謀長:鈴木卓爾大佐 参謀:吉田正治中佐・平櫛孝少佐・岡野喜佐少佐

主に愛知・岐阜・静岡出身

5月14日東京湾出港し19日135連隊・136連隊と共にサイパン到着

到着後、31軍小畑司令官より「我れ身を以って太平洋の防波堤たらん」の訓示を受ける


☆歩兵第118連隊3295名生還者82名:ラウラウ地域

連隊長:伊藤豪大佐 主に静岡出身

5.30高岡丸・ふぁあぶる丸・勝川丸に分乗して館山沖を出港しサイパンに向かうが6.4勝川丸・6.5高岡丸・6.6ふぁあぶる丸が魚雷により海没

2240名と戦車・兵器・資材が海に沈んだ

救助された約1000名はサイパンに到着したが半数は火傷など負傷しており武器もなかった

6.13チャランカノアの47旅団316大隊の後方支援につくが6.15米軍上陸地点にて激しく戦闘するもヒナシスまで後退

6.17総攻撃の命令に第5中隊高橋中尉を先頭に広岡・鈴木軍曹が続き米軍戦車に向かって突撃するも全滅

6.20少ない機関銃で善戦するもほとんど全滅し残った兵は136連隊と共に死の谷を6.30まで守ったが全て全滅

生還者は上陸時に負傷していた一部であろう


☆歩兵第135連隊4045名生還者172名:タナパグ港付近

連隊長:鈴木栄助大佐 主に愛知・京都出身

5.19サイパン到着後北部守備につくが5.31第1大隊をテニアン守備の命を受け出発

6.17米軍の上陸地点に南進し136連隊の援護に向かったがオレアイ海岸手前で米軍と戦闘となり大敗した

6.19タポチョ南で孤立、118連隊と136連隊の健闘のおかげで退路が開き逃げ延びるも7.2には400名になっていた


☆歩兵第136連隊4055名生還者129名:ガラパンからオレアイ海岸

連隊長:小川雪松大佐 主に岐阜・福井出身

第一大隊(福島勝秀大尉)はガラパン正面、第二大隊(安藤正博大尉)はオレアイ正面、第三大隊(野々村春雄大尉)は海上機動部隊としてタポチョ山南東にて基礎訓練となる

6.15オレアイ海岸に米軍が上陸、福島大隊・安藤大隊は肉弾戦を余儀なくされ兵は激減するも昼も夜も突撃を繰り返し海岸からヒナシス丘までに2000名以上が戦死した

6.19残兵は孤立した135連隊の援護のためラウラウ湾西の高地を守備し米軍はこの谷を「死の谷」と呼ぶほどの激戦をした

7.4タポチョ山北側に後退する際に米軍と鉢合わせになった連隊長以下生存兵27名はこの時、壮絶な撃ちあいとなり全員戦死する

他の生存者は極楽谷・地獄谷に移動してバンザイ突撃に参加した


☆第43師団通信隊225名生還者14名

隊長:鷲津吉光大尉 主に愛知・岐阜・静岡出身


☆第43師団輜重隊97名生還者2名

隊長:山本光男大尉 主に愛知・岐阜・静岡出身


☆第43師団兵器勤務隊103名生還者4名

隊長:村瀬兼松大尉 主に愛知・岐阜・静岡出身


☆第43師団野戦病院613名生還者4名:ガラパンに野戦病院開設

病院長:深山一孝軍医中佐 主に愛知・岐阜・静岡出身

海没の生存者と上陸軍の下痢患者が多すぎて野戦病院だけでは足らず、国民学校やサイパン劇場も病院とした

米軍上陸後は北へ向かって水源地のある洞窟を移動して行くが、歩けないものはその場に手榴弾と共に置いて行くしかなかった

薬品・資材が無く困難は極め死臭・うめき・自決・喉の渇きで洞窟の野戦病院は地獄絵そのものであった

最後は極楽谷まで移動したが米軍が迫り7.6病院長は自決、職員も全員自決した

この自決では手榴弾で重傷を負ったが三浦静子さんだけが生き残った


☆第43師団経理勤務隊2629名生還者80名

隊長:大川英夫中佐 主に愛知・岐阜・静岡出身

この勤務隊主力は第2輸送隊の118連隊と一緒にサイパンに向かったが、魚雷により海没

救助され6.7にサイパンに到着したがほとんどが負傷者でした



16日、第31軍の井桁参謀長は軍司令部から第135連隊をタポチョ南斜面に移動するよう命じました

次はタポチョ山が第二の戦場と予測したのです

17日の朝にはタポチョ山北側の電信山まで移動していました

斉藤師団長は17日午後5時にオレアイ・チャランカノアの米軍上陸部隊に総攻撃し一気に壊滅する計画を立て、136連隊・河村隊・18連隊第1大隊・旅団316大隊と315大隊・戦車第9連隊の残存兵に命令を出しました

無傷の135連隊も計画に入っていたが伝達不備と移動に手間取り、結局は間に合わなかった


この作戦を南興神社指揮所にて説明した鈴木参謀長は戦車第9連隊五島大佐から猛烈に反対された

戦車は歩兵に合わせて攻撃すると機動力がなり、まして夜の攻撃は視界が無くなる上に敵からは良い標的になるだけと五島大佐は主張し1歩も引かなかったが、最後は師団長命令により同時攻撃と決まりました


17日午後5時、米軍上陸部隊が防御陣地を構築し部隊整備をするまでに総攻撃を加えたい作戦ですが、各部隊間の連絡が取れず、結局18日午前2時半になってしまいました


米軍資料によれば、この日、部隊整備が整わないうちに総攻撃されるのが怖かった

そして一番恐れていたのは明るいうちに戦車隊に攻められることだった

15、16日の二日間で米兵は3500名まで死者が出おり、肝心の対戦車砲が未だに陸揚げされていなかったため米兵は浮き足だっていたのです

17日は何度も何度も艦隊司令部に向けバズーガ砲と75ミリ対戦車砲の陸揚げを催促していました


戦車第9連隊は夜中になっても攻撃合図が出ないことにイライラしていたが、午前2時半に歩兵が揃い、遂に30両の戦車は縦列となって山を降りてきました


しかし、そこに待っていたのは1600挺ものバズーガ砲の集中砲火でした

ロケット式のバズーガ砲は今まで見たことの無い破壊力がありました

それでも敵陣地を撹乱し指揮所近くまで猛攻撃をしましたが、M4型シャーマン戦車を繰り出し、照明弾で昼のようにされ、機銃の嵐、バズーガ砲の威力、対戦車砲などの反撃に大半が破壊・炎上していきました


午前6時には戦闘は挫折し18連隊第1大隊はほぼ全滅、河村大隊はススペ湖北側に四散、五島大佐をはじめ各隊の指揮官はほとんどが戦死しました

トラック島に輸送する予定だった戦車10両がガラパンに無傷の状態で残っている報告を受け、黒木隊の生存者はこの戦車に向かいました